エリザベート・アマーリエ・オイゲーニエ・フォン・ヴィッテルスバッハ(Elisabeth Amalie Eugenie von Wittelsbach、1837-1898)、「シシィ」の愛称で知られる后妃は、バイエルン王国(現ドイツ)に生まれ育ちます。
エリザベートの父親であったマクシミリアン公爵は、バイエルン王家(ヴィッテルスバッハ家)の中でも傍系であったこともあり、そうとうな自由人であったようで、エリザベートも自由気ままに伸び伸びと生きていました。
皆さんは、ドイツの「陶磁器街道」という名を耳にされたことがあるでしょうか。
グリム童話で有名なメルヘンゆかりの町をつなぐ「メルヘン街道」や、古城が点在する「古城街道」などのように、この「陶磁器街道」は、陶磁器の製造で有名な町をつないでいるルートです。
ドイツの南東部のバイエルン地方からチェコまで続く、全長550kmに及ぶこの陶磁器街道の一角に位置するのが、今回ご紹介するクロイセン(Creußen、Creussen)です。
2018年1月13日からパナソニック汐留ミュージアムで始まった「ヘレンド展 皇妃エリザベートが愛したハンガリーの名窯」に行って来ました。
ヘレンド窯の作品が日本で紹介されるのはこれで3回目。初回は1993年、名工の手によるマスターピースを中心に、2回目は2000年から2001年にかけてヘレンド窯とハプスブルク宮廷の関わりに焦点を当てた展覧会でした。
そして3度目となる今回は、繊細な絵付けの施された装飾用磁器や、美しい装飾の実用磁器を中心に、ヘレンド窯190年の歴史沿って精選されたおよそ230点が紹介されています。
タラベラ・デ・ラ・レイナ(Talavera de la Reina、以下タラベラ)は、マドリードやトレドの近郊に位置し、人口は9万人程度。カスティーリャ=ラ・マンチャ州では4番目、トレド県においては2番目に人口が多い都市となっています。
”ラ・レイナ(la Reina)”は、スペイン語で”女王”という意味。カタルーニャ州にあるタラベラと区別するために、「女王のタラベラ」という名になったと言われています。
南仏マルセイユから車で約1時間半、ムスティエ・サント・マリー(Moustiers Saint-Marie)という小さな村をご存知でしょうか?
フランスのグランドキャニオンと言われるヴェルデン渓谷と、2200ヘクタールの巨大なサント・コワ湖のすぐ近くに位置する、人口は約700人の本当に小さな村です。
こんなに小さな村ですが、フランスで最も美しい村の一つに指定されており、ムスティエ焼きや素晴らしい絶景を眺めに、世界でも知られた観光地となってきています。
リモージュ焼きといえば、透き通るような白磁に、クラシックで優雅な絵付けがほどこされた気品あるデザインが特徴的です。
このリモージュ磁器の誕生は1765年〜1770年頃と言われ、リモージュ最古の窯「ロワイヤル・リモージュ(Royal Limoges)」をはじめ、「ベルナルド(Bernardaud)」、「アビランド(Haviland)」、「レイノー(Raynaud)」、「ロールセリニャック(Laure Selignac)」などフランスを誇る老舗窯が、今もなお多数存在しています。
さて、ではこのリモージュでなぜ磁器生産が盛況したのでしょう。
ザクセン選帝侯としてのフリードリヒ・アウグスト1世(Friedrich August I)と、ポーランド・リトアニア共和国の王としてのアウグスト2世(August II Mocny)という2つの顔をもち、"強健王"や"ザクセンのヘラクレス"などとも呼ばれるほど驚異的な怪力の持ち主としても有名なアウグスト強王(1670-1733)。
その異名を証明するため?!しばしば蹄鉄をへし折って見せ、自慢していた!という驚きの逸話も残る彼は、1670年にザクセン選帝侯領の首都ドレスデンに生まれます。
フェリペ2世(Felipe II、1527-1598)は、絶対君主の代表格にも位置づけられる人物で、スペイン黄金世紀の中でも最盛期に君臨した国王です。
このため、フェリペ2世はきっと、その時代に見合った、華やかな生活を送っていたはずと想像を広げる人も多いでしょう。フランスのルイ14世のように、絢爛豪華なものに囲まれ、豪遊生活を楽しんでいたのだろうと。
しかし実際はというと、フェリペ2世は絢爛豪華なものとは無縁の生活を送っていたのです。
「メディチ家」と聞くと、何を最初に連想しますか?
成金? 金融? 借金取り? 毒薬? 殺人?
どれもあまり好印象とは言えないものが多いかも知れません。
メディチ家は、ルネッサンス期を代表する一族で、銀行家、政治家として当時のフィレンツェを牛耳っていました。
フランチェスコ1世・デ・メディチ(Francesco I de' Medici、1541-1587)は、このメディチ家の出身で、1584年に、日本の九州の大名がローマ教皇に向けて使節として派遣した4人の日本人少年(天正遣欧少年使節)に、イタリアでの謁見を果たした人物でもあります。
ドイツ南部に位置するバイエルン州にあるアンスバッハ(Ansbach)の町は、ドイツのマンハイムからチェコのプラハまで100kmにも続き、中世から近世にかけて建てられたお城がレストランやホテルとして運営されている「古城街道」にあります。
人口4万人ほどの小さな町ですが、近郊にあるローテンブルク(Rothenburg)やニュルンベルク(Nürnberg)などに劣らない魅力があり、18世紀にはアンスバッハ・ロココと呼ばれる豪華絢爛な文化が花開きました。
カンペール焼きの歴史は、17世紀に絶対王政の元でフランス絶頂期を演出し、「太陽王」とも呼ばれたルイ14世の時代にまで遡ります。
15世紀頃から作られていた素朴な陶器が、ルイ14世の庇護の下、大きく発展していきます。
王家により設立された陶器工房(のちのHB社)は、手書き絵付け陶器のフランスで最も古い企業としても有名です。
マラガの街の起源は、紀元前3000年頃にペルシア湾から地中海地方へ移住してきたと言われる海上交易の民フェニキア人が、紀元前1000年頃に現在の場所に「マラカ」(Malaka)という都市を建てたことに始まります。
「マラカ」という名はフェニキア語の「塩」から来ていて、港で魚が塩漬けにされていたことによると言われています。