ロイヤルコペンハーゲン、ロイヤルデルフトに代表されるように、世界中にはたくさんのブルー&ホワイトで有名な食器ブランドがあります。
実はイギリスにも、青と白の食器で知られるブランドがあるのです。
その名は「スポード(Spode)」。あのピーターラビットの作者、ビアトリクス・ポターも愛した食器ブランドとか。
今回は、イギリスの「スポード」の知られざる歴史や有名シリーズをのぞいてみましょう。
アウガルテンは、その正式名称を「ウィーン磁器工房アウガルテン(Wiener Porzellanmanufaktur Augarten)」といいます。
マイセンに次ぎ古い歴史をもち、神聖ローマ帝国の皇帝を世襲したハプスブルク家の庇護をうけて発展した由緒正しい窯ですが、その出自のわりに、マイセンやウェッジウッド等の他のヨーロッパの陶磁器と比べて、日本での知名度はそれほど高くないように思います。
アウガルテンの魅力は、工房内での独自の粘土の調合と熟成が実現した滑らかで艶やかな白磁と、ハプスブルク家のお膝元でもあった芸術の都ウィーンの華やかな文化の中で生み出された様々なパターンの絵付(いまなお、すべてハンドペイントと言われます)にあります。
2017年11月22日より、六本木のサントリー美術館開館10周年記念、「フランス宮廷の磁器セーヴル、創造の300年」が始まったので、早速行ってきました!
今回はその見どころなどをご紹介したいと思います。
会場は「18世紀」、「19世紀」、「20世紀」、そして「現代」の4部構成になっていて、およそ300年のセーヴルの歴史を時間軸に沿って鑑賞することができます。
1710年マイセンがヨーロッパ初の硬質磁器を誕生させます。マイセンは磁器の製造方法を門外不出としていたにもかかわらず、その製法はヨーロッパ各国へと伝わっていきます。
1718年にはオーストリア・ウィーンのアウガルテン窯が磁器製造に成功し、そして、イタリアでは、1735年にトスカーナ大公国の貴族でありながら、化学・鉱物学にも造詣の深かったカルロ・ジノリ侯爵 (Carlo Ginori) がフィレンツェ郊外のセストフィオレンティーナのドッチア(Doccia)という場所に磁器窯を開きます。
ヨーロッパでは3番目、イタリアでは初の硬質磁器の誕生です。
「ヨーロッパで食器や陶器が有名な国」と言うと、どこを思い浮かべますか?イギリス?それともフランス、ドイツ、いや、北欧?
実は最近、日本でひそかに人気急上昇中の食器がポーランドにもあるのです。
「ポーリッシュ・ポタリー(polish pottery)」「ポーランド食器」と呼ばれていますが、その中でも有名なのが「ボレスワヴィエツ(Boleslawiec)」。
ブランド名ではなく、ポーランド南西部にある小さな街の名前で、「ボレスワヴィエツ食器(陶器)」とはこの街で作られる陶器の総称です。
日本で言うなら、「有田焼」「美濃焼」などと同じような呼び方ですね。今回は、知る人ぞ知る陶器の街「ボレスワヴィエツ」の魅力に迫ります。
マリア・テレジアの父カール6世には男の子の世継ぎがいなかったため、当時、女性の世襲は認められていなかったもかかわらず半ば強引に、23歳のマリア・テレジアにハプスブルグ家(神聖ローマ帝国)の女君主としての地位を引き継がせることになります。
正確には、「神聖ローマ皇帝」という称号は夫のフランツ1世が持つことになったものの、政治の実権は完全にマリア・テレジアが持っていました。
チャールズ・グレイは、政治活動を始めた当初、あまり人脈がありませんでした。自分の売り出しにも悩んでいた時に、社交界で一人の女性と知り合います。
それは、当時社交界の華として大変な人気を誇っていた、デヴォンシャー侯爵夫人(ジョージアナ・キャヴェンディッシュ)でした。
デヴォンシャー夫人の後押しもあって、チャールズ・グレイは自分の名を広めることに成功します。しかし、デヴォンシャー夫人との間は、ただの政治仲間ではすみませんでした。
先日、現在東京八王子の東京富士美術館で開催中の「遥かなるルネサンス 天正遣欧少年使節がたどったイタリア」展に行ってきましたので、その見どころをご紹介したいと思います。
ウィリアム・フォートナムは、1707年に、「フォートナム&メイソン」を設立した人物として有名ですが、その出自に関しては謎が多く、資料も大変少ない人物です。
ウィリアム・フォートナムの名前が歴史に登場するのは、名誉革命後のスチュアート朝最後の女王となった、アン女王のフットマン(footman)として王室で働いていた時のことです。
ちなみに、footmanとは、王族・貴族の馬車の車輪が、ぬかるみにはまったり、木の根に乗り上げたりしないよう、徒歩で馬車のまわりをついていく、要するに下級召使いのことです。
母と元家庭教師(母の愛人?)の下で、従順な国王として人形扱いされていたジョージ3世ですが、このふたりの意見を、一度だけ突っぱねたことがあったのです。
それは結婚相手の選定。
しかし、ビュート伯や母親の目があり、表だって結婚相手探しは出来ませんでした。そこで、最も信頼していたグレイム大佐に花嫁探しを任せます。
そして、グレイム大佐が連れてきたのが、シャーロット・オブ・メックレンブルク=ストレリッツ(1744-1818)、後のシャーロット王妃です。
国王ジェームズ2世が即位する前に妻アン・ハイドとの間に娘を二人もうけましたが、妻は若くして死去してしまいます。
そこで、王位継承者となる男児を得るため、また、この頃カトリック信仰を公表していたジェームズにとっては、どうしても同じくカトリックである妻を迎える必要があったため、再婚相手として選ばれたのがイタリアの名門エステ家のメアリ・オブ・モデナ(1658-1718)でした。
イタリア語名をマリーア・ベアトリーチェ・デステという彼女は、黒髪ですらりと背が高くスタイルの良い女性でしたが、このとき40才であったジェームズに対し、花嫁はなんと25才年下の15才!