ルネッサンス期のフィレンツェの金融業を牛耳ったメディチ家の傍系(弟脈)の出身
「メディチ家」と聞くと、何を最初に連想しますか?
成金? 金融? 借金取り? 毒薬? 殺人?
どれもあまり好印象とは言えないものが多いかも知れません。
メディチ家は、ルネッサンス期を代表する一族で、銀行家、政治家として当時のフィレンツェを牛耳っていました。
元々は、フィレンツェで薬やを営み(紋章の6つの球は丸薬の意味であったそう)、その蓄財をもとに銀行業をはじめ、フランス王やドイツ諸侯などにも出入りし(紋章の赤い玉の上には、フランス王家ヴァロワ朝の紋章である百合の花を使うことを許されている)、新興貴族としてどんどん勢力を増しきイタリアの名門貴族にまで成り上がります。
出典:florenceinferno.com(メディチ家の紋章)
成り上がりの貴族と聞くと印象は良くありませんが、メディチ家にまつわる話は悪い話ばかりではありません。
メディチ家は美術品や工芸品の熱心なコレクターとしても有名で、ミケランジェロなどルネサンス期の偉大なアーティストたちのパトロンとしても活躍していました。
さて、フランチェスコ1世・デ・メディチ(Francesco I de' Medici、1541-1587)は、このメディチ家の出身で、1584年に、日本の九州の大名がローマ教皇に向けて使節として派遣した4人の日本人少年(天正遣欧少年使節)に、イタリアでの謁見を果たした人物でもあります。
出典:Wikipedia(フランチェスコ1世)
ちなみに、メディチ家繁栄の基礎を築いたジョヴァンニ・ディ・ビッチ・デ・メディチ(Giovanni di Bicci de' Medici、1360-1429)のふたりの息子であるコジモ(兄)とロレンツォ(弟)から連なる家系をそれぞれ兄脈・弟脈といい、兄脈の方は2名の教皇(教皇レオ10世、教皇クレメンス7世)を輩出したりしています。
出典:Wikipedia(ジョヴァンニ・ディ・ビッチ・デ・メディチ)
フランチェスコ1世の父であるコジモ1世は、メディチ家では傍系(弟脈)でしたが、直系(兄脈)の家系が途絶えたためメディチ家の当主となり、神聖ローマ皇帝の後ろ盾も得て、1537年にはトスカーナ大公国の初代大公となり、専制的な権力でもって、その後も約200年ほど続くメディチ家中興の祖となりました。
出典:Wikipedia(コジモ1世・デ・メディチ)
フランチェスコ1世は父コジモ1世の後を継ぎ、2代目トスカーナ大公となりますが、どちらかというと学究肌のひとであったようで、幼少期から様々な研究をしており、植物、薬、鉱物など、その興味は、錬金術にまで及んでいたようです。
ヨーロッパ初の磁器が完成よりも、100年も前に磁器製造を試みた男
錬金術が趣味だったフランチェスコ1世は、マルコ・ポーロが持ち帰ったという中国の磁器を目にし、ヨーロッパ初の磁器製造に意欲を燃やします。
ヨーロッパ初の陶磁器と言えばマイセン、そのマイセンの陶磁器が作られたのは、1709年ですから、その200年近く前に磁器を作ろうと試みた人物がフランチェスコ1世だったというわけなのです。
フランチェスコ1世の努力の甲斐もあって、1575年には、陶磁器らしいものが完成します。
しかし、硬質磁器の製造に不可欠であった材料「カリオン」を用いなかったため、陶磁器に似た軟質磁器の完成にまでしか至りませんでした。
出典:Wikipedia(メディチ磁器の花瓶)
そして、この軟磁器の製造方法もフランチェスコ1世の死と共に消滅し、失われてしまいます。
フランチェスコ1世によって作り出された磁器もどきの軟質磁器は、「メディチの磁器」と呼ばれ、それからマイセンの陶磁器が作られるまでの約200年間、外交の重要なアイテムとして使われてきました。
フランチェスコ1世が作った軟磁器は800点にも上ると言われていますが、現存するのは60点ほどで、世界の名だたる美術館(ルーブル美術館や大英博物館)で見ることが出来ます。
愛人に、毒殺に、スキャンダルが絶えなかったフランチェスコ1世
メディチ家の当主らしく、フランチェスコ1世もまた常にスキャンダルの絶えない人物でした。フランチェスコ1世は、神聖ローマ皇帝フェルディナンド1世の娘ジョヴァンナ・ダズブルゴと結婚し、8人もの子供をもうけました。
出典:Wikipedia(ジョヴァンナ・ダズブルゴ)
しかし、フランチェスコ1世はそれでは飽き足らず、愛人を作ります。
ヴェネツィアの裕福な貴族であるカペッロ家の出身で、美女として噂の高いビアンカ・カッペロという人妻でした。
出典:Wikipedia(ビアンカ・カッペロ)
ビアンカの夫が女性がらみの痴話げんかに巻き込まれィレンツェの路上で殺されると(これもフランチェスコ1世が仕組んだことだと噂された)、フランチェスコ1世は、妻帯中にも関わらずビアンカを傍に置き、妻がマラリアで急死後にはすぐにビアンカと再婚し、周囲を驚かせます。
また、フランチェスコ1世の弟にピエトロという人物がいました。彼は、メディチ家の中でも特に残忍な性格を持っていたと言われています。
ピエトロは女好きでもあり、妻のことを放ったらかしにして、浮気三昧な生活を送っていました。この生活に耐えかねたピエトロの妻は、自身も浮気へと走ります。
その不倫愛が夫ピエトロの知るところとなり、なんとピエトロは妻を絞殺。
出典:Wikipedia(ピエトロ・デ・メディチ)
しかし、時の大公で、ピエトロの兄でもあるフランチェスコ1世はこれを黙殺したんです!
家長は妻の生死を決める権利があるとかいう理由で、ピエトロに何の罪も課さなかったのです。
さすがにこれは民衆の反発を招き、大公の威信を落とすきっかけとなっています。
更には、自分の妹であるイザベッラ・デ・メディチが、その夫のパオロに暗殺された際には、パオロを擁護し、人々を驚かせました。
妹イザベッラが暗殺された理由は、派手な男性関係のため、とのことであったそうですが、自分の妹が殺されたのに、その殺人犯を擁護するとはなかなか理解に苦しみますね。
一説には、妹暗殺(毒殺)にフランチェスコ1世自身が加担していたとも言われています。
出典:Wikipedia(イザベッラ・デ・メディチ)
悪評にまみれたフランチェスコ1世らしく、晩年、政治からは引退し、別荘や実験室にこもるようになってからも、市民の間では毒薬を製造しているとの噂が広まったり、1587年に別荘で彼とその妻となったビアンカが相次いで急死した際には、彼の後を継いだ弟フェルディナンドによる毒殺ではという説もでるほどでした(死因は、後世の研究で、マラリアによるものと判明)。
「メディチの磁器」の製造といった芸術に情熱を傾ける一方、愛人に、毒殺に、といったスキャンダルの多いその生き様は、いかにもメディチ家の当主といったものですね。
参考資料
「図説 メディチ家―古都フィレンツェと栄光の「王朝」 (ふくろうの本)」中嶋浩郎(著)、河出書房新社(2000)
「メディチ家の人々」中田耕治(著)、集英社(1979)
「マニエリスム期におけるメディチ家の宝物コレクション」(論文)松本典昭(著)