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トーマス・リプトン|斬新な経営戦略で、小さな食料品店から世界で愛される紅茶ブランドへ発展させた紅茶王

世界各国から愛される有名紅茶ブランド、リプトン。

日本で初めて輸入された紅茶はリプトンであり、日本人にとっても大変なじみの深い紅茶といえるでしょう。

そんなリプトンの創業者トーマス・リプトン(Thomas Lipton、1850-1931)はもともと食料品店を営んでおり、紅茶の事業を始めるのは意外にも?39才頃のこと!


アルバート公|「ヘレンド」が世に注目される契機となったロンドン万博開催の立役者

1851年、ロンドンのサウスケンジントンにある王立公園ハイド・パークにて世界最初の万国博覧会が開催されました。

当時の君主、ヴィクトリア女王の治世を象徴する祭典ともいわれるほどの一大イベントであったこのロンドン万博、参加国は34ヶ国にのぼり、5月から10月にかけての会期141日間で総入場者数はのべ604万人という大盛況ぶり!

そんな史上初の万博を大成功させた立役者こそ、ヴィクトリア女王の最愛の夫アルバート公(1819-1861)です。


リチャード・トワイニング|高すぎるお茶の税金が引き起こしたアメリカ独立戦争と、トワイニング社4代目の活躍

17世紀に、国力をつけたイギリスとフランスは、いずれも積極的な植民地獲得に乗り出し、インド、アメリカ新大陸で互いに争い、ヨーロッパにおいても、スペイン継承戦争、オーストリア継承戦争、七年戦争などで度々、敵対しました。

これら植民地政策や相次ぐ戦争で、多額の費用がかさんでいた18世紀のイギリス。

そこでイギリスは、苦しまぎれに新たな課税を始めることとなりますが、これが国内のみならず、"国外"からも大きな反発を受けることとなります。


ジョージ4世|「スポード」にロイヤル・ワラントの称号を与えた、悪名高いイギリス国王
ジョージ4世はなぜそんなに悪名高い? ジョージ4世(1762-1830)は1762年、国王ジョージ3世とその妻シャーロットの長男として生まれました。  出典:Wikipedia(ジョージ4世) 若い頃から、ハンサムで教養も深く、「イングランド一のジェントルマン」と呼ばれたこともあるほど魅力的...

チャールズ・グレイ|紅茶アール・グレイの名前は元イギリス首相の名前から?

チャールズ・グレイは、政治活動を始めた当初、あまり人脈がありませんでした。自分の売り出しにも悩んでいた時に、社交界で一人の女性と知り合います。

それは、当時社交界の華として大変な人気を誇っていた、デヴォンシャー侯爵夫人(ジョージアナ・キャヴェンディッシュ)でした。

デヴォンシャー夫人の後押しもあって、チャールズ・グレイは自分の名を広めることに成功します。しかし、デヴォンシャー夫人との間は、ただの政治仲間ではすみませんでした。


ウィリアム・フォートナム|召使いの副業から始まった、イギリス王室御用達の店「フォートナム&メイソン」

ウィリアム・フォートナムは、1707年に、「フォートナム&メイソン」を設立した人物として有名ですが、その出自に関しては謎が多く、資料も大変少ない人物です。

ウィリアム・フォートナムの名前が歴史に登場するのは、名誉革命後のスチュアート朝最後の女王となった、アン女王のフットマン(footman)として王室で働いていた時のことです。

ちなみに、footmanとは、王族・貴族の馬車の車輪が、ぬかるみにはまったり、木の根に乗り上げたりしないよう、徒歩で馬車のまわりをついていく、要するに下級召使いのことです。


シャーロット王妃|芸術と自然をこよなく愛し、「ウェッジウッド」を見出したドイツ出身の王妃

母と元家庭教師(母の愛人?)の下で、従順な国王として人形扱いされていたジョージ3世ですが、このふたりの意見を、一度だけ突っぱねたことがあったのです。

それは結婚相手の選定。

しかし、ビュート伯や母親の目があり、表だって結婚相手探しは出来ませんでした。そこで、最も信頼していたグレイム大佐に花嫁探しを任せます。

そして、グレイム大佐が連れてきたのが、シャーロット・オブ・メックレンブルク=ストレリッツ(1744-1818)、後のシャーロット王妃です。


メアリ・オブ・モデナ|名誉革命で失脚!国王に嫁いだはずが一転、亡命の身へ。オランダ仕込みのお茶を宮廷に広めた王妃

国王ジェームズ2世が即位する前に妻アン・ハイドとの間に娘を二人もうけましたが、妻は若くして死去してしまいます。

そこで、王位継承者となる男児を得るため、また、この頃カトリック信仰を公表していたジェームズにとっては、どうしても同じくカトリックである妻を迎える必要があったため、再婚相手として選ばれたのがイタリアの名門エステ家のメアリ・オブ・モデナ(1658-1718)でした。

イタリア語名をマリーア・ベアトリーチェ・デステという彼女は、黒髪ですらりと背が高くスタイルの良い女性でしたが、このとき40才であったジェームズに対し、花嫁はなんと25才年下の15才!


キャサリン・オブ・ブラガンザ|「陽気な王様」に嫁ぎ、イギリスにお茶をもたらしたポルトガル王女

チャールズ2世は、王政復古によって混乱していた国の立て直しを図るため、また当時イギリスのライバルであったオランダに対抗しようと、オランダのライバルであったポルトガル王女との結婚を画策します。

この政略結婚はキャサリンが生まれた頃から持ち上がっていたといい、キャサリンが2歳になるかならないかの1640年には婚約していたとか!

しかし、ピューリタン革命に伴う混乱によって延期となっていたのです。その後20年の時がたち、1662年、ついに二人はポーツマスにて結婚します


ヴィクトリア女王|大英帝国の繁栄期の象徴

大英帝国の繁栄期の象徴的存在であり、その時代の政治、経済、文化や技術面においては「ヴィクトリア朝」と呼ばれることでも有名なヴィクトリア女王(1819-1901)。

ちなみに、彼女が即位した時代、国内では全国的な不作も影響し、イギリス経済はどん底に あったといいますから、国民の若い女王への期待感は薄いものだったよう、、、

彼女が大英帝国を黄金期へと導き、その後60年以上にもわたる治世が続くとは国民には知る由もなかったかもしれませんね。


アンナ・マリア|アフタヌーンティーを始めたウーバンアビーの貴婦人

今でこそ紅茶といえば英国!というイメージが定着している現代ですが、英国に紅茶の習慣が広がっていった背景には、王侯貴族が宮廷内で流行らせたことをきっかけに、それが徐々に中産階級へ広がり、やがて一般市民へと浸透していった、という経緯がありました。

しかし!紅茶にまつわる習慣は何でも王族が始めたとは限りません…

たとえば、アフタヌーンティーを始めたのは国王や女王ではなく、あるお屋敷に住んでいた貴婦人。

しかも彼女のちょっとしたお悩みがきっかけとなって生まれたアフタヌーンティーは、やがて女王をも楽しませる習慣として定着していくこととなるのです。


トーマス・トワイニング|いちはやく紅茶の小売に進出した製茶王

世界中で人気を誇る紅茶ブランド、トワイニング。英国の紅茶の歴史はトワイニングと共にあるといわれるほど、実は大変歴史ある伝統的なブランドでもあります。

その創設者であるトーマス・トワイニング(1675-1741)はイングランド南西部にあるグロスターシャーの出身といわれ、もともとトワイニング家は毛織物を扱う業者だったのだそうです。


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