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マクシミリアン3世とマリア・アンナ・ゾフィア|神聖ローマ帝国の継承権をマリア・テレジアと争った姉妹の子供たちが創設したニンフェンブルク窯

ドイツ・バイエルン選帝侯マクシミアリアン3世ヨーゼフは、バイエルン選帝侯から神聖ローマ皇帝となったカール7世と、妃マリア・アマーリエの間に、ミュンヘンで生まれます。

一方、彼の妻となるマリア・アンナ・ゾフィアは、ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト2世(ポーランド王アウグスト3世)と、妃マリア・ヨーゼファの間に、ドレスデンで生まれます。

この頃のドイツは、大小の諸侯が乱立する領邦国家。その中でも特に力をもっていたのは、神聖ローマ帝国の皇帝に関する選挙権をもち「選帝侯」と呼ばれた7諸侯ですから、有力諸侯同士の政略結婚ですね。

そして、双方の母親同士は姉妹!ですから、マクシミリアン3世は一つ年下の従妹を花嫁に迎えることとなるわけです。


マリー・ルイーズ|政略結婚のため憎むべき存在「皇帝ナポレオン」の二番目の妃となったハプスブルク家の皇女

マリー・ルイーズ(Maria Luisa、1791-1847)は、神聖ローマ皇帝フランツ2世(Franz II、1768-1835)の長女として、現オーストリアのウィーンで成長しました。

幼少の頃から、「ナポレオン」と名付けた人形をいじめながら育ち、10代の頃にはナポレオンのヨーロッパ侵略によってシェーンブルン宮殿を追われる経験を2度も経験したマリー・ルイーズ。

決して、ナポレオンに対して良い印象を抱いたことはありませんでした。


マリー・アントワネット|フランス革命に散った悲劇の王妃は、贅沢三昧で無知だったのか?

マリー・アントワネット(Marie-Antoinette、1755-1793)は、オーストリア皇帝のフランツ1世とその妻マリア・テレジアとの間に、第15子としてウィーンに誕生します。

オーストリアとフランスは、数百年間にわたって、ヨーロッパ大陸での覇権を争う宿敵関係でしたので、一旦は同盟関係を結べたものの、いつ瓦解してもおかしくない状態のため、早いうちに一層の関係強化を図る必要がありました。

そこで白羽の矢がたったのが、オーストリア側は14歳のマリー・アントワネット、フランス側は15歳の王太子(後のルイ16世)です。幼いマリー・アントワネットは、両家融和の象徴として、フランスに輿入れすることになります。


エリザベート|「ヨーロッパ宮廷一の美貌」といわれたハプスブルグ家最後のオーストリア皇后

エリザベート・アマーリエ・オイゲーニエ・フォン・ヴィッテルスバッハ(Elisabeth Amalie Eugenie von Wittelsbach、1837-1898)、「シシィ」の愛称で知られる后妃は、バイエルン王国(現ドイツ)に生まれ育ちます。

エリザベートの父親であったマクシミリアン公爵は、バイエルン王家(ヴィッテルスバッハ家)の中でも傍系であったこともあり、そうとうな自由人であったようで、エリザベートも自由気ままに伸び伸びと生きていました。


マリア・テレジア|オーストリアを近代化し、ウィーンをカフェの街にした啓蒙専制君主

マリア・テレジアの父カール6世には男の子の世継ぎがいなかったため、当時、女性の世襲は認められていなかったもかかわらず半ば強引に、23歳のマリア・テレジアにハプスブルグ家(神聖ローマ帝国)の女君主としての地位を引き継がせることになります。

正確には、「神聖ローマ皇帝」という称号は夫のフランツ1世が持つことになったものの、政治の実権は完全にマリア・テレジアが持っていました。


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