スペイン絶頂期に君臨した国王
フェリペ2世(Felipe II、1527-1598)は、絶対君主の代表格にも位置づけられる人物で、スペイン黄金世紀の中でも最盛期に君臨した国王です。
出典: Wikipedia (フェリペ2世)
スペイン王であり神聖ローマ皇帝にも選出された父カルロス1世の息子として、名門ハプスブルク家に誕生し、1556年には父カルロス1世の引退により、28歳の若さで国王に即位するという、これ以上ないほどの華麗な出自です。
当時のヨーロッパは、16世紀前半の宗教改革以降、旧教カトリックと新教プロテスタントのふたつの勢力が相いに争い、次第にプロテスタントの勢力が勢いを増していく時代です。
フェリペ2世は、カトリックの盟主として、カトリックによる国家統合を理想として、国の統治に当たりました。
国王に即位したフェリペ2世は、1561年にスペインの中央に位置するという理由から、それまでのバリャドリッドからマドリードへ首都を移します。
また、1571年には、当時、地中海東部から中東にかけて広大な地域を支配しており、ヨーロッパ世界にとって最大の脅威であったイスラム勢力のオスマン・トルコを、「レパントの海戦」で打ち破っています。
出典:Wikipedia(レパントの海戦)
また、1580年には、ポルトガル王家が断絶したことを受け、フェリペ2世はリスボンを占拠し、ポルトガル王の王位継承に名乗りを上げます(この背景には、母イザベルがポルトガル王家出身だったことがあげられます)。
この結果、フェリペ2世によって、スペインによるポルトガル併合が行われ、スペインはポルトガル本国に加え、ポルトガルの植民地まで手に入れ、フェリペ2世は父カルロス1世から引き継いだ広大な土地をさらに拡大させることに成功します。
この結果、スペイン帝国はますます繁栄し「太陽の沈まない国」と言われるまでに!
そして、1584年には、日本の九州の大名がローマ教皇に向けて使節として派遣した4人の日本人少年(天正遣欧少年使節)への謁見も果たしています。
しかしながら、華々しく領土を拡大していく一方で、父カルロス1世の時代から続く戦争に加え、フェリペ2世の時代には、オスマン・トルコとの戦争、プロテスタント国であったオランダのスペインからの独立戦争などが続き、スペインの財政は火の車。
1588年には、オランダの独立戦争を支援していたイギリスを叩くため無敵艦隊を派遣したものの、「アマルダの海戦」でよもやの敗北。
さらにはペストの流行が追い打ちをかけ、フェリペ2世の命の終わりと共に、スペインの黄金時代も終わりを告げたのでした。
出典: Wikipedia(アマルダの海戦)
フェリペ2世は書類大好き人間?!
フェリペ2世は、スペイン帝国の全盛期を謳歌した人物です。
このため、フェリペ2世はきっと、その時代に見合った、華やかな生活を送っていたはずと想像を広げる人も多いでしょう。フランスのルイ14世のように、絢爛豪華なものに囲まれ、豪遊生活を楽しんでいたのだろうと。
しかし実際はというと、フェリペ2世は絢爛豪華なものとは無縁の生活を送っていたのです。むしろ、好き好んで書類整理に明け暮れていたと言い、「書類王」というあだ名が付けられるまでに。
スペイン黄金時代の活躍の陰で、世界中の植民地からあがってくる膨大な量の報告書を、黙々と読み込み、時にはつづりの間違いまで訂正していたというほど、地味なデスクワークをこなしていたそうです。
いや、地道なデスクワークあってこその、スペイン黄金時代とも言えそうですが。
ちなみに、フェリペ2世が確立した緻密すぎる書類システムは、フェリペ2世亡き後にしっかり機能させられる人物はいなかったと言われ、あっさりと廃れてしまったそうです。
どれほどのシステムを構築したのでしょうか!
また、生涯にわたって4回も結婚したものの、その相手は、ポルトガルの王女マリア、イギリス女王のメアリ1世、フランス王アンリ2世の娘エリザベート・ド・ヴァロワ、神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世の娘アンナ、といずれも当時のスペインにとって利害関係のある外国の王女ばかりで、まさに政略結婚つづき。
出典: Wikipedia(イギリス女王メアリ1世)
出典:Wikipedia(フランス王アンリ2世の娘エリザベート・ド・ヴァロワ)
出典:Wikipedia(神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世の娘アンナ)
子供も夭折したりで、残された子供は3名のみ。どうも家庭的にも、あまり恵まれた人生ではなかったようです。
家庭の温かみが感じられるタラベラ焼きの発展を支持したのはフェリペ2世
7つの海を制覇したスペイン帝国には、新大陸を含む様々な国や地域から珍しいものが沢山入ってきていました。中国の磁器、アメリカ大陸の金銀宝石など。
しかし、フェリペ2世はそういったものにあまり関心を持ちませんでした。
元々豪華なものに興味を持っていなかったというのもありますが、フェリペ2世は他国のモノに興味がなかったようで、フェリペ2世が興味を持っていたものは、自国のモノだけ。
また、フェリペ2世は、一生涯スペイン語(カタルーニャ語)しか話すことはなかったと言われ、スペインの食べ物、スペインの文化を最も愛したと言われています。
そのスペイン愛は、フェリペ2世の支援した陶磁器にも見ることが出来ます。フェリペ2世が支援したその陶磁器とは、スペインのタラベラ焼きです。
出典: El Digital Castilla la Mancha(タラベラ焼きの陶器)
タラベラ焼きは、マドリード近郊のタラベラ・デ・ラ・レイナという街で作られるもので、家庭のぬくもりを感じさせる、素朴な陶磁器です。
スペインらしい一品ではありますが、ヨーロッパの王侯貴族が愛したマイセンやセーヴルのような豪華さは持っていません。しかし、フェリペ2世にとっては豪華さなど余計なもの。
むしろ、スペインらしさの方がよっぽど重要だったのかもしれませんね。
当時、幾何学模様しかなかったタラベラ焼きを発展させるため、フェリペ2世は技術職人をオランダのデルフトから召集しました。
こうして、ただの幾何学模様の陶磁器であったタラベラ焼きに多様な模様が加わることになります。 タラベラ焼きの発展を大いに気に入ったフェリペ2世は、タラベラ焼きのタイルやその他の陶磁器などを大量に注文しました。
フェリペ2世のスペイン愛は、瞬く間に広がり、スペインの中だけにとどまらず、世界中で、タラベラ焼きは一躍有名になったのです。
出典:Wikipedia(タラベラ焼きのタイル)
参考資料
「スペイン フェリペ二世の生涯―慎重王とヨーロッパ王家の王女たち」西川和子(著)、彩流社(2005)
「スペイン・ポルトガル洋食器の旅」浅岡敬史(著)、リブロボート(1996)
「ヨーロッパ陶磁器の旅―南欧篇」浅岡敬史(著)、中公文庫(1999)