ナポリ・シチリアの王として即位し、後に王位を息子に譲ってスペイン王となるカルロス3世(1716-1788)は、スペイン王フェリペ5世と、彼の2番目の妃でイタリア北部のパルマ公女エリザベッタ・ファルネーゼとの間に生まれます。
父フェリペ5世には既に世継ぎとして先妻の子フェルナンド6世がいたため、カルロス3世は、母エリザベッタがイタリア北部のパルマ公国出身であったこともり、王子時代にはパルマ公を務めていました。
マルセイユの街の歴史は紀元前600年前に遡ります。古代ギリシアで繁栄したフォカイア人が築いた植民都市「マッシリア」、が現在のマルセイユの起源とされ、フランス最古の街となっています。
現在は人口の約半分が移民で北アフリカの国々との結びつきも強く、国際色豊かな街。またマルセイユは暖かい土地にみられるとても陽気でオープンな土地柄でもあります。
ドイツの窯と言えば、マイセン(Meissen)をまず思い浮かべる方が多いでしょう。
しかし、マイセン以外には思い浮かばない方もいらっしゃるかもしれませんね。実はドイツには、日本ではまだ知名度が高いとは言えない窯がたくさんあるのです。
今回は、マイセンに次いでドイツで2番目に歴史のある「ヘキスト陶磁器工房(Höchster Porzellan-Manufaktur)」という窯を紹介します。
注文を受けてから職人が下絵なしで絵付けするという、由緒ある窯なのです。
エインズレイ(Aynsley)は18世紀から続く長い伝統をもち、高品質なボーンチャイナなど高い技術と優美なデザインが評価され、イギリス王室からこよなく愛されている陶磁器メーカーです。
その創業者であるジョン・エインズレイ(John Aynsley)は、イギリスの中西部の街ストーク・オン・トレント(Stroke-on-Trent)で炭鉱を経営し、陶器の窯元に対して石炭を納品していました。そして、個人的な趣味としても、陶器やラスター彩のコレクションに情熱を傾けていました。
ジョン・エインズレイは、次第にコレクションするだけでは飽き足らず、1775年、とうとう、ストーク・オン・トレントのレイエンド(Lane End)、現在のロングトン(Longton)に陶磁器を製造するための窯を作ってしまいます。
1870年、アルザス・ロレーヌ地方の領有権をめぐっておきた、フランスとプロイセン(ドイツ)間の普仏戦争により、サルグミーヌ窯は大きな問題に直面します。
この戦争の結果、サルグミーヌが、それまでのフランス領から、プロイセン(ドイツ)領へ組み入れられることとなったのです。
そして、ドイツからフランス国内への輸出に対しては、多額の税金がかけられることとなりました。
ムルシアの歴史は大変古く、580年ごろには、イベリア半島の北東からこの辺りまでギリシャ人がやってきて、陶器産業を作る元となったとされています。
825年には現在の場所にムルシアという名前の都市ができており、後ウマイヤ朝のアブド・アッラフマーン2世以降は、しばらくイスラム王朝の統治下の時代が続き、この間に、陶工たちがやってきたそうです。
マリー・ルイーズ(Maria Luisa、1791-1847)は、神聖ローマ皇帝フランツ2世(Franz II、1768-1835)の長女として、現オーストリアのウィーンで成長しました。
幼少の頃から、「ナポレオン」と名付けた人形をいじめながら育ち、10代の頃にはナポレオンのヨーロッパ侵略によってシェーンブルン宮殿を追われる経験を2度も経験したマリー・ルイーズ。
決して、ナポレオンに対して良い印象を抱いたことはありませんでした。
ジョゼフィーヌ(Joséphine de Beauharnais、1763-1814)は、いわゆる没落貴族の娘として、マルティニック島のトロワ・ジレに生まれます。
生家は経済的には困窮していたものの、もって生まれた人目を惹く美貌を活かし、生涯を通じて様々な男性を魅了し、派手で豪華な暮らしを送ります。
また、彼女の魅力は、その美貌だけではありません。彼女と一緒になった男性は幸運に恵まれ、別れた男性はツキに見放されるという不思議な体質。
ドイツ南部にあるニュルンベルク(Nürnberg)は、人口50万人を超え、バイエルン州では2番目に大きな都市で、州都ミュンヘン(München)からは特急で1時間。
駅前はすぐに旧市街とアクセスも非常に便利であり、ドイツの中でも歴史あるクリスマスマーケットや、世界最大のおもちゃ見本市が開催されることでも有名です。
現在のドイツ連邦のもととなったバイエルン王国やザクセン公国、現在のチェコ西部のボヘミア王国など、かつては神聖ローマ帝国の領邦国家として自治権をもっていた諸国の境界に位置し、重要な街道が交わる地点でもあったことから、ニュルンベルク城(カイザー・ブルク)は神聖ローマ帝国皇帝の拠点として重要視されてきました。
ロイヤルクラウンダービー(Royal Crown Derby)は、イングランド中部の都市ダービー(Derby)の磁器会社です。
創業は1750年。現在も操業している窯としては、イギリス最古の陶磁器メーカーと言われています。
ロイヤルウースター(Royal Worcester)の創業が1751年ですので、わずか1年違いですが「イギリス最古」となり、また、ヨーロッパで最初に硬質磁器の製造に成功したマイセン(Meissen)が1710年、最も有名な陶磁器メーカーともいえるウェッジウッド(Wedgewood)が1759年に事業を開始したことを考えても、いかも長い伝統を誇る窯ですね。
1811年に、サン・クリク・カゾー(Charles Gaspard Alexandre Saint-Cricq Casaux)がクレイユ窯の経営者となり、1819年にモントロー窯を買収。
その後、工場経営を引き継いだルイ・マーティン・レベフ(Louis-Martin Lebeuf、1792-1854) とジャン・バプティスト・グラシアン・ミレー(Jean Baptiste Gratien Milliet、1797-1875)のもと 1840年には合併します。
ともにライバルとしてそれほど遠くない場所で陶器工場を営んでいたクレイユとモントローが共同で陶器を作ることとなりました。この名前は1840年から1874年まで“Lebeuf Milliet et Cie ”のマークで残ることとなります。
古い時代より、ロレーヌ地方では陶器作りという美しい伝統が続いていました。
ロンウィでは1798年、シャルル・レニエ(Charles Régnier)が3人のパートナーとともに、かつての修道院に最初の陶器工場が作ったところから始まります。
そんなロンウィの陶器が一躍脚光を浴びたのは、かの皇帝ナポレオン・ボナパルト(Napoléon Bonaparte、1769-1821)が、1804年に要塞を見るためにこの街を訪れ、この陶器を気に入り、テーブル食器を注文した事でした。