幸運の女神ジョゼフィーヌ
ジョゼフィーヌ(Joséphine de Beauharnais、1763-1814)は、いわゆる没落貴族の娘として、マルティニック島のトロワ・ジレに生まれます。結婚前の正式名はマリー・ジョゼフ・タシュール・ド・ラ・パジョリー(Marie Josèphe Rose Tascher de la Pagerie)。
出典: Wikipedia (ジョゼフィーヌ)
生家は経済的には困窮していたものの、もって生まれた人目を惹く美貌を活かし、生涯を通じて様々な男性を魅了し、派手で豪華な暮らしを送ります。
また、彼女の魅力は、その美貌だけではありません。彼女と一緒になった男性は幸運に恵まれ、別れた男性はツキに見放されるという不思議な体質。
少女時代には、占い師に「最初の結婚は不幸になるが、そのあとで女王以上の存在になる」と言われ、その予言通り、彼女と結婚したナポレオンは遂にはフランス皇帝にまで登りつめ、彼女は皇后に。
そして、彼女が最初の結婚(ボアルネ子爵)でもうけた息子ウジェーヌはイタリア副王にまで出世し、娘オルタンスはオランダ王妃となります。まさに、予言どおりの人生ですね。
最初の結婚。しかし、離婚後の元夫はギロチンの処刑台に
そんなジョゼフィーヌの最初の結婚相手は、ルイ16世の下でアメリカ独立戦争を戦った子爵アレクサンドル・ド・ボアルネ将軍。
出典: Wikipedia (ボアルネ将軍)
ふたりは1779年に結婚し、息子ウジェーヌ、娘オルタンスに恵まれますが、夫婦仲は悪く、1783年には離婚。
彼女と別れた後のボアルネ子爵はというと、一時は、憲法制定国民会議(第三身分であった平民を中心に構成された「国民議会」がフランス革命後に改称したもの)の議長まで務めますが、フランス革命の急進派ロベスピエール(Robespierre、1758-94)の独裁政治のもとで粛清対象となり、1794年に投獄されてほどなく、ギロチンで処刑されてしまいます。
獄中での出会い。そして、社交界の花形へ
一方、離婚後、実家に戻っていたジョゼフィーヌでしたが、元夫や友人の助命を嘆願したことで、こちらも罪に問われ監獄に投獄されてしまいます。
しかし、たまたま隣の部屋に収監されていたルイ=ラザール・オッシュ将軍(しかも1週間前に結婚したばかり)と、なぜか恋仲となってしまい、さらには彼女の幸運のなせる業でしょうか、処刑目前にして、テルミドールのクーデターでロベスピエールが処刑されたことで、ふたりとも釈放されます。
しかし、釈放後、彼女と別れたオッシュ将軍は、このわずか5年後、30歳の若さで戦地で病没してしまいます。
出典: Wikipedia (オッシュ将軍)
その後、ジョゼフィーヌは、生活のためにポール・バラス(Paul Barras、1755-1829)の愛人となり、社交界の花形となります。
彼女を身近においた、バラスは親王派の民衆が引き起こしたヴァンデミエールの反乱(1795)を、ナポレオンを副官に任命して鎮圧し、新たにフランス政府のかじ取りを行う「総裁政府」が発足すると、5人の総裁のうちのひとり、として出世街道をひたはしります。
出典: Wikipedia (バラス総裁)
しかし、ジョゼフィーヌに飽きたバラスが、副官であったナポレオンに押し付ける形で、彼女と別れると幸運の女神はナポレオンに微笑むようになります。
1796年、ナポレオンはイタリア遠征の司令官に任命され、大活躍し、国民の英雄としてフランスへ凱旋。反対に、国民から人気がなかった総裁政府は追い詰められ、1799年、ブリュメール18日のクーデターでナポレオンにより総裁政府が倒され、ナポレオンは実質的な国家元首の立場に。
一方、辞職に追いやられたバラスは、腹いせにナポレオン夫婦に対する誹謗中傷を繰り返し、フランス国外追放の憂き目にあってしまいます。
ナポレオンと結婚する前にジョゼフィーヌと恋愛関係にあった男性は、いずれもジョゼフィーヌを手にすることで幸運を手にし、そして、彼女と別れることでその幸運からすっかり見放されてしまったかのようです。
ナポレオンの出世の陰にも「幸運の女神」あり?!
さて、ジョゼフィーヌと結婚する前のナポレオンですが、その5か月前にマルセイユの有力商人の娘デジレ・クラリー(Désirée Clary、1777-1860)と婚約したばかりでした。
実はナポレオンはこの婚約にそれほど乗り気ではなかったとも言われていますが、わずか5か月間で婚約を破棄してまで、そして、かつての自分の上司バラスの愛人であったジョゼフィーヌをあえて選んだのは、なにか直観的に感じるものがあったのかも知れないですね。
出典: Wikipedia (デジレ・クラリー)
いずれにしても、1796年、ナポレオン26歳、ジョゼフィーヌ32歳で二人は結婚します。
ふたりの新婚当初にジョゼフィーヌが飼っていた「フォルチュネ(幸運)」という犬が、ベットに入り込みナポレオンの足にかみついた、なんて逸話も残っており、この後のナポレオンの快進撃を予言するかのようですね。
出典: Wikipedia (イタリア遠征でアルプスを越えるナポレオン)
その結婚生活はというと、年上女房のジョゼフィーヌにぞっこんだったナポレオンに対して、ジョゼフィーヌの方は相変わらず、男を振り回す恋多き女だったようです。
イタリア遠征中のナポレオンが彼女にあてたラブレターを友人に見せて笑いものにしたり、戦地見舞いにくるよう懇願するナポレオンの願いをそっけなく断ったり、それどころか、エジプト遠征中にはハンサムで知られた騎兵大尉イッポリト・シャルル(Hippolyte Charles、1773-1837)と浮気をしたり、とやりたい放題。
出典:kleurrijkhortense.blogspot.co.uk (イッポリト・シャルル)
しかも、ナポレオンがこの浮気を嘆く手紙をフランスへ送ったところ、手紙を載せたフランス艦がイギリス艦隊に拿捕されて、その手紙が新聞に掲載されて、敵国中の笑いものに。
まさに踏んだり蹴ったり。
これには、さすがのナポレオンももう我慢の限界と、離婚を決意しましたが、ギリギリのところで踏みとどまります。
幸運の女神の身勝手さに翻弄されつつも、この期間のナポレオンは連戦連勝。1804年には、とうとう「フランス人の皇帝陛下」としてフランス皇帝の座につき、ジョゼフィーヌも「フランス人の皇后陛下」の称号が与えられます。
出典: Wikipedia (ナポレオンから皇后冠を授けられるジョゼフィーヌ)
ジョゼフィーヌと離婚して後の、英雄ナポレオンのあまりに寂しい最期
この離婚騒動があってからというもの、ジョゼフィーヌは次第にナポレオンのことを真剣に愛しはじめるようになります。
しかし、一方のナポレオンはというと、ジョゼフィーヌに対する愛情が冷め、他の女性に関心を抱くようになっていきます。
追いかけられると逃げたくなって、逃げられると追いかけたくなって、男女の気持ちは本当にままならないものですね。
ジョゼフィーヌとの間には子供ができなかったナポレオンですが、その後、ポーランドの名門貴族の妻からナポレオンの愛人となったマリア・ヴァレフスカ(Maria Walewska、1786-1817)との間に男児が生まれたことなどもあり、自身の男性としての能力に自信をもち、家柄の良い女性との間に正式な嫡子を持つことを望みはじめます。
出典: Wikipedia (マリア・ヴァレフスカ)
1810年、嫡子が生まれないことを理由にジョゼフィーヌと離婚し、オーストリアのハプスブルク家の皇女マリー・ルイーズ(Maria Luisa、1791-1847)と結婚します。
これが、幸運の女神を手放した瞬間、と言えるかもしれません。
出典: Wikipedia (マリー・ルイーズ)
出典: Wikipedia (ナポレオンとジョゼフィーヌの離婚)
イタリア遠征の頃から、ジョゼフィーヌは、戦場の兵士たちの間で、「勝利の女神」として大人気だったため、この離婚の際には「なんでばあさん(ジョゼフィーヌの愛称)と別れちまうんだ。ばあさんは皇帝も俺たちも幸せにしてくれたのに」と、ぼやきがでるほどだったとか。
これを証明するかのように、これまで、トラファルガーの海戦でイギリス軍に敗れた例外を除いて、主要な戦いで後れを取ったことのないナポレオンでしたが、1812年ロシア遠征では50万人ものフランス軍がほぼ壊滅して撤退。
出典: Wikipedia (ロシア遠征から撤退するナポレオン)
その後も、フランス革命の波及を恐れるヨーロッパ各国から猛烈な反抗にあい、1814年ライプツィヒの戦いでは対仏大同盟に包囲されて、フランスへ撤退。
やがては首都パリも陥落して、皇帝を退位。
自殺を図るも失敗し、最終的にはセント・ヘレナ島へ流刑となり、ヨーロッパ全土をあわや手中に収めようとした稀代の英雄としては、あまりに寂しい最期を遂げるのです。
一時は、ナポレオンとの離婚を大変に嘆き悲しんだジョゼフィーヌですが、離婚後もナポレオンのよき相談相手となり、後妻となったマリア・ルイーザが嫉妬するほどだったそうで、ナポレオンの失脚後、多くの人間が彼を見限って離れていく中で、最も親身になって彼の相談にのり、支援をしたのは、ほかならぬジョゼフィーヌでした。
ナポレオンの皇帝退位後、ほどなくして肺炎で急死。
彼女の最期の言葉は、「ボナパルト、ローマ王、エルバ島…」、一方で、そのナポレオンが流刑先のセントヘレナ島で死去した際の最後の言葉は「フランス、陸軍、陸軍総帥、ジョゼフィーヌ…」でした。
それぞれ相手の名前を呼ぶ順番が違いますね。これが男女の間の埋められない溝なんでしょうか。
薔薇の研究にも熱心であったジョゼフィーヌ
ジョゼフィーヌと言えば、派手で贅沢で恋多き女性、として有名ですが、そんな彼女が好んだ花は、やはり華やかな薔薇。
そして、彼女は、薔薇を愛でるだけでなく、研究し育てることにも熱意を傾けていたのです。
ジョゼフィーヌは、ナポレオンと離婚した後も、マルメゾン城に住み、植物の栽培と研究を続け、世界各地から珍しい薔薇の種を求めました。
出典: Wikipedia (マルメゾン城)
ナポレオンが戦っていた敵国からも薔薇の珍種を輸入していたほどで、薔薇の品種の収集活動に熱心に取り組んでいたのです。それを聞きつけた、各国の植物学者や研究者たちは、薔薇の珍種や新種をジョゼフィーヌに送ったと言います。
そして、それを用いて薔薇園を繁栄させ、世界最高峰の薔薇園を完成させたのです。
研究活動も熱心に行い、お抱え園芸家の一人であったアンドレ・デュポン(Andre Dupont)による人工授粉技術の確立をサポートし、それまでのバラの育成方法に多大な衝撃を与えました。
更に、ジョゼフィーヌは薔薇の記録もしっかりと管理していました。天才画家のピエール・ジョゼフ・ルドゥーテ(Pierre-Joseph Redouté、1759-1840)は、ジョゼフィーヌからこの薔薇園立ち入りの許可を得て、薔薇の絵を描くようになります。
出典: Wikipeida (ルドゥーテの薔薇の絵)
当時この薔薇園には250種類もの薔薇が世界各国から集められてきていました。ルドゥーテはそのうちの169種を「バラ図譜」に描き残しています。しかし残念なことに、ジョゼフィーヌがその完成品を目にすることはありませんでした。
今日、薔薇の品種は3000種を超すと言われていますが、その礎を築いたのは、他でもないジョゼフィーヌだったのです。
「セーヴル窯」を再興したナポレオンとジョゼフィーヌ
ルイ15世の愛妾ポンパドゥール夫人に創設され、1759年には「王立」の磁器製作所としてフランス王家の庇護を受けるまでとなったセーヴル窯ですが、王立であったがゆえに、1789年、王制・貴族制の打破を掲げるフランス革命では、襲撃をうけ、作品の多くは没収・破壊され、操業停止にまで追い込まれます。
しかし、1799年にナポレオンが実質的に政権を握ると、自身の権威を誇示するための、皇帝や高官の肖像、各地での戦果を題材とした作品を多く製作しました。
1800年には、科学者で鉱物学者のアレクサンドル・ブロンニャール(Alexandre Brongniart、1770-1840)が所長に就任し、中国磁器の技法を徹底的に研究し、軟質磁器から硬質磁器への転換を果たし、酸化クロムから「皇帝の緑」と呼ばれる新しい色を発明するなど、新しい磁器の発展に寄与し、後に帝政様式(アンピール様式)と呼ばれるセーヴルの新しいスタイルを確立しました。
出典: patrick-howard-antiques.com (19世紀初期のセーヴル磁器)
1804年に、ナポレオンが皇帝、ジョゼフィーヌが皇后に即位すると、彼らの庇護の下で、セーヴル窯は「国立」のセーヴル磁器製作所として、再び素晴らしい作品を生み出していくことになるのです。
参考資料
「ジョゼフィーヌ―革命が生んだ皇后」安達正勝(著)、白水社(1989)
「ナポレオンの生涯:ヨーロッパをわが手に」ティエリー・レンツ(著)、遠藤ゆかり(訳)、創元社(1999)
「図説 バラの世界(ふくろうの本/世界の文化)」大場秀章(著)、河出書房新書(2012)