憎むべき存在「皇帝ナポレオン」
マリー・ルイーズ(Maria Luisa、1791-1847)は、神聖ローマ皇帝フランツ2世(Franz II、1768-1835)の長女として、現オーストリアのウィーンで成長しました。
出典:Wikipedia(マリー・ルイーズ)
幼少の頃から、「ナポレオン」と名付けた人形をいじめながら育ち、10代の頃にはナポレオンのヨーロッパ侵略によってシェーンブルン宮殿を追われる経験を2度も経験したマリー・ルイーズ。
決して、ナポレオンに対して良い印象を抱いたことはありませんでした。
出典: depositphotos.com (シェーンブルン宮殿)
それもそのはず、「王制・貴族制を市民が倒す」というフランス革命の理念そのものが、西ローマ帝国の正統な後継者として西ヨーロッパ諸国の盟主を代々世襲してきた神聖ローマ帝国皇帝の家系(ハプスブルク家)にとっては、自分たちの地位を脅かす考え方以外のなにものでもありません。
しかし、もともと1789年に起きたフランス革命の理念を他のヨーロッパ諸国の干渉から防衛する、という名目ではじまった紛争でしたが、ナポレオンという稀代の軍事の天才が台頭するにしたがって、次第にフランスによるヨーロッパ諸国への侵略戦争の色を強めます。
1810年当時、ヨーロッパ各国はもはや、フランス皇帝にまで登りつめたナポレオンの存在を無視することはできない、という状況でした。
出典: Wikipedia (ナポレオン)
そんな情勢のもと、既にフランス皇帝となっていたナポレオンは、なかなか世継ぎの生まれない皇后ジョゼフィーヌと離婚し、由緒正しい家柄の娘と結婚して子供をもうけることを考えます。
これを知った時、マリー・ルイーズは、親しい友人に向けて、「次に妃として迎えられる人に心から同情すると共に、それが自分でないように願っている」と手紙を書き送ったほどです。
しかし、ナポレオンの侍従長タレーラン(Talleyrand、1754-1838)が白羽の矢を立てたのは、ヨーロッパで最も歴史と格式をもつハプスブルク家の長女マリー・ルイーズでした。
出典: Wikipedia (タレーラン)
また、当時のオーストリア外相メッテルニヒ(Metternich、1773-1859)にとっても、この結婚は、勢いを増すナポレオンを懐柔するための重要な施策だったのです。
しかし、この時、わずか19歳のマリー・ルイーズにとってはただの政略結婚、しかもその相手ナポレオンは自分が最も憎んできた人物。やはり簡単には愛せなかったと言います。
出典: Wikiepdia (メッテルニヒ)
一方で、ナポレオンの方はというと、ハプスブルク家という名門の家系に生まれ育ちながらも、前妻ジョゼフィーヌのような派手さや賑やかさを一切持たず、慎ましい生活を過ごすマリー・ルイーズを好もしく思ったそうです。
出典:Wikipedia(ナポレオンとマリー・ルイーズの結婚式)
ナポレオンの優しい態度や物腰が、マリー・ルイーズに通じたのでしょうか。結婚の翌年1811年には待望の世継ぎとなる男児ナポレオン2世(ローマ王)が誕生することになるのです。
出典:Wikipedia(マリー・ルイーズとナポレオン2世)
凋落していくナポレオンとの結婚生活
社交的でいつも取り巻きに囲まれていた前妻のジョゼフィーヌとは違い、マリー・ルイーズが部屋に入れるのは女官庁モンテベロ夫人や衣装係長リュセイ夫人など、ごく限られたもののみ。
しかもお洒落や宝石にもほとんど興味がなく、ひたすら慎ましい暮らしを過ごすのみであったため、ジョゼフィーヌ皇后との取引で大儲けをした商人たちにをはじめ、宮廷内での評判も取り立てて良いものではありませんでした。
出典: louvre.fr (ルーヴル美術館に収蔵されているマリー・ルイーズの装身具)
また、マリー・ルイーズと結婚した頃から、ナポレオンの栄光にも陰りが見え始めます。
1812年に、ナポレオンは、敵対するイギリスに対して食糧支援を続けるロシアのアレクサンドル1世(エカテリーナ2世の孫)を討伐する目的で、ヨーロッパ史上最大の70万人もの大軍を率いてロシアの首都モスクワへ進軍。
一時は、モスクワを占領下におきますが、実はこれはロシア側の作戦だったのです。
ロシア側は、モスクワから撤退する際に、食料や建物すべてを焼き尽くしていったため、フランス軍はその後到来した冬のロシアの厳しい寒さ(冬将軍)のために撤退を余儀なくされます。
撤退する途中では、冬の寒さに加え、食糧不足、疫病、ゲリラにも悩まされ、フランスへたどり着くことができたナポレオン軍は、わずか5000人ほどだったとか。
出典: Wikipedia (ロシア遠征から撤退するナポレオン)
このロシアでの大敗をみて、ヨーロッパ諸国が次々とナポレオンへ反旗を翻します。
まずは、プロイセンがフランスに対して宣戦を布告すると、イギリス、ロシア、スウェーデンが次々と戦列に加わり、マリー・ルイーズの母国オーストリアも、当初はナポレオンとヨーロッパ各国の和平交渉を仲介しますが、最終的には対フランスの立場で参戦。
1813年のライプツィヒの戦いでは、フランス軍19万に対して、ヨーロッパ連合軍は36万の軍勢。
ナポレオンも局地戦ではたびたび勝利をおさめるものの、数の優位には抗しがたく、最終的にはフランスのパリまで撤退し、1814年にはフランス皇帝から退位し、エルバ島へ流されることなります。
出典: Wikipedia (ライプツィヒの戦いでのナポレオン)
この間、夫であるナポレオンが劣勢に立たされる中にあっても、マリー・ルイーズは息子であるナポレオン2世(ローマ王)とともにパリに残ります。
父であるオーストリアの神聖ローマ皇帝のフランツ2世やロシア皇帝アレクサンドル1世に働きかけ、ナポレオンの待遇改善や、息子であるナポレオン2世(ローマ王)にトスカーナ大公国(元メディチ家、そしてハプスブルク家の統治下であったが、当時はフランス統治下にあった)を継がせようとします。
しかし、願いはかなわず、半ば強制的にウィーンへ連れ戻されることとなってしまったのです。
新しい恋人ナイペルク伯爵との出会いと心変わり
ウィーンへ帰国したマリー・ルイーズは、エルバ島のナポレオンのもとへ合流するつもりでしたが、あまりにもやつれた彼女の姿に、父であるフランツ2世は、フランスとオーストリアの国境にある温泉の街エクス=レ=バン(Aix-les-Bains)での静養をすすめます。
出典: Wikipedia (エクス=レ=バン)
このとき、オーストリアの外相メッテルニヒが彼女につけた護衛兼監視役は、42歳の妻子ある男性ナイペルク伯爵。
メッテルニヒにとっては、すでに皇帝を退位し権力を失ったナポレオンはできるだけ早くオーストリアとの関係を断ち切っておきたい存在。
そして、ナイペルク伯爵も、ナポレオンとの戦いでその右目を失ったことからナポレオンを憎悪していました。
出典: Wikipedia (ナイペルク伯爵)
ナイペルク伯爵は洗練された立ち振る舞いと、ウィットに富んだ会話でマリー・ルイーズをあっという間に籠絡してしまいます。
すっかり魅了されたマリー・ルイーズは、それまでの夫ナポレオンへの献身的な愛はどこへやら、ナイペルク伯爵との恋に走ります。
そんなことは露知らず、愛しの妻が、エルバ島に監禁されている自分の元を訪れるのを、今か今かと待っていたであろうナポレオンが気の毒ですね。
マリー・ルイーズが、いとも簡単に鞍替えした背景には、「ナポレオンは憎むべき男」という幼いころからの教育の成果があったのかもしれません。
ナポレオンは、1815年にエルバ島を脱出して、わずか3ヶ月ほどの期間ですが、皇帝の位に再び返り咲きます(百日天下)。
この時、ナポレオンはマリー・ルイーズに宛てて、自分の元へ戻ってくるよう何度も手紙を書き送ったものの、ついに彼女は一度も返事を書かなかったそうです。
その後、ワーテルローの戦いでイギリス・プロイセンの連合軍に完敗したナポレオンは、セントヘレナ島へ幽閉され、1821年に寂しくその人生の幕を閉じることになるのです。
出典: Wikipedia (セントヘレナ島でナポレオンが暮らしたロングウッドハウス)
ナポレオンとの息子との間の悲しい関係
マリア・ルイーザがナイペルク伯爵との生活を共にし、その後の10年間で4人の子供を出産する一方、息子であるナポレオン2世(ローマ王)は、ウィーンで監禁同然の寂しい生活を送りつつ、母マリア・ルイーザとの会える日を楽しみにしていました。
しかし、マリア・ルイーザがはじめて面会に会いに来たのは、息子と別れてから2年後、そして、その後もほとんど面会には来なかったそう。
出典: Wikipedia (ナポレオン2世)
ナポレオンとの間にできた息子だったからあえて冷たい態度を取ったのかと勘繰りたくもなりますが、何の称号ももたない息子を不憫に思い、父フランツ2世やメッテルニヒへ働きかけて、ナポレオン2世(ローマ王)にライヒシュタット公爵の地位を送ったりもしているので、この息子に対して、愛情がなかったわけではなさそうです。
しかし、ナポレオン2世(ローマ王)を出産した際には、息子の世話はモンテスキュ夫人に全部丸投げして、可愛がることはほとんどなかったようなので、そもそもマリー・ルイーズは、あまり母性本能の強いタイプの女性ではなかったようですね。
一方のナポレオン2世(ローマ王)の方はというと、偉大な英雄である父を崇拝し、フランス語の勉強に励んだり、猛烈な軍事訓練に励んでみたり、反対に、父ナポレオンがセントヘレナ島で存命中であるにもかかわらず、ナイペルク伯との間に子供をなした母マリー・ルイーズに対しては恋しいと思いつつも、嫌悪を感じるという複雑な胸中にあったようです。
1832年、苛烈な軍事訓練で体調を崩し病床に伏していたナポレオン2世(ローマ王)のもとに、彼の教育係からの再三の嘆願で、母マリー・ルイーズがようやく重い腰をあげ、ウィーンへ見舞へ訪れましたが、翌日には息を引き取ります。
偉大な英雄ナポレオンの栄枯盛衰に翻弄された、母マリー・ルイーズと息子ナポレオン2世(ローマ王)の物語は、なんともいえずやるせない気持ちにさせられますね。
愛用した陶磁器はリチャード・ジノリ
前妻ジョゼフィーヌとは異なり、贅沢品や宝石にあまり興味を示さなかったマリー・ルイーズは、陶磁器も派手な絵柄の豪華絢爛なものではなく、実用的なものを求めました。
出典: Wikipedia (マリー・ルイーズ)
それまでのフランス宮廷で主流になっていたセーヴル陶磁器は、よほどのことが無い限り使用せず、代わりにシンプルなリチャード・ジノリ(Richard Ginori)を愛用していたのです。
1735年にイタリアのカルロ・ジノリ侯爵によって創設された窯は、マリー・ルイーズの死後1896年にようやく皇室御用達業者に認定されましたが、その認定までの道のりの陰にはマリー・ルイーズの存在があったというわけです。
出典: リチャードジノリ公式ホームページ
参考資料
「ナポレオンの生涯:ヨーロッパをわが手に」ティエリー・レンツ(著)、遠藤ゆかり(訳)、創元社(1999)
「貴婦人が愛したお菓子」今田美奈子(著)、角川書店(1983)
「貴婦人が愛した食卓芸術」今田美奈子(著)、角川書店(2001)