ジェームズ2世より25才年下の花嫁!メアリー・オブ・モデナ
兄である国王チャールズ2世が亡くなり、1685年に即位することとなるジェームズ2世(1633-1701)。
出典:Wikipedia(ジェームズ2世)
彼が即位する前、まだヨーク公ジェームズであった頃に妻アン・ハイドとの間に娘を二人もうけましたが、妻は若くして死去してしまいます。
出典:Wikipedia(アン・ハイド)
そこで、王位継承者となる男児を得るため、また、この頃カトリック信仰を公表していたジェームズにとっては、どうしても同じくカトリックである妻を迎える必要があったため、再婚相手として選ばれたのがイタリアの名門エステ家モデナ公アルフォンソ4世の娘であったメアリ・オブ・モデナ(1658-1718)でした。
出典:Wikipedia(メアリ・オブ・モデナ)
イタリア語名をマリーア・ベアトリーチェ・デステという彼女は、黒髪ですらりと背が高くスタイルの良い女性でしたが、このとき40才であったジェームズに対し、花嫁はなんと25才年下の15才!
二人は1673年に結婚しますが、親子ほども年の差があるうえ、修道女になるつもりだったというメアリは当初、結婚に難色を示していたのだそう…しかし、結局は家族に説得され、承諾することとなりました。
ちなみに、ジェームズの前妻アン・ハイドは夫の不貞に耐えられず、そのストレスからどんどん太った挙句、次第に気力を失っていったといいますが、メアリーの場合は、そんな夫にも比較的寛容で、冷静に受け止めていたようです。
そんな二人はしばらく子どもに恵まれず、生まれてもまもなく死亡してしまうという時期が続きますが、ジェームズはメアリーを愛していたといいますし、事実、夫妻はこの先の波乱万丈な生涯を共に乗り越えていくこととなります。
名誉革命が勃発!その原因は正当な王子の誕生!?
1685年に即位し、国王ジェームズ2世の治世が始まってまもなく、それまで子どもに恵まれなかった夫妻に待望の男児が誕生します。
出典:Wikipedia(メアリ―と息子のジェームズ)
普通なら喜ばしい出来事のはずですが、当時、プロテスタントの国であったイギリスでカトリック信仰を強めようとしていたジェームズは、議会から危険視されており、彼の正当な王位継承者が生まれてしまうとカトリックの王が続くことになるため、プロテスタントにとっては、これはあってはならない事件でした。
ジェームズ2世亡き後は、彼の最初の妻との娘であり、プロテスタントとして育ったメアリー、またはアンが王座に就くと高をくくっていた議会はこれを受け、ついに行動を起こすことに!
こうして、オランダに嫁いでいたメアリーとその夫で後のウィリアム3世夫妻を呼び戻し、アンをも味方につけたことで、名誉革命が勃発します。
ジェームズ2世一家は命こそ助かったものの、王座を奪われ、フランスへ亡命することとなりました。
ちなみに、王妃が妊娠したというニュースが流れたとき、国民の間には、「王妃は腹にクッションを当てている」「本当は死産だったが別の赤ん坊が王妃の寝室に送り込まれた」「女児であったが男児とすり替えられた」…などなど様々な噂が流れたといいます。
議会は王妃が本当に出産するかを確かめるため、立ち合い出産を求めたものの、プロテスタントの証人たちはベッドに背を向けて立ち、証人となることを拒否したという逸話も残っています。
しかしながら、本当にメアリーは男児を出産していないという歴史的根拠は無いそう…ですから、待望の正当な男児を出産していたメアリーにとっては、国民からのこの仕打ちはどれほどつらいものであったか計り知れませんよね…
国王から一転…フランスでの亡命生活
1688年の名誉革命の末、逃げ延びたジェームズ2世とメアリ、そして誕生したばかりの息子ジェームズ・フランシスは、フランスにて亡命生活を始めます。
しかしながら、フランスでは丁重に扱われ、一家にはパリの近くにあるサン・ジェルマン・アン・レー城がフランス国王ルイ14世より提供されました。
出典:Wikipedia(ジェームズ・フランシス)
メアリーはこの城で1692年に娘ルイーザ・マリア・テレーザを出産していますが、彼女の誕生に際し、ジェームズは王座を奪った娘のメアリ―2世をはじめ、プロテスタントの貴婦人たちに出産を見届けてほしいと手紙を送ったといいます。
これは、息子ジェームズ・フランシスのときのように正当性を疑われないための策でありましたが、実際に立ち合いに来る者はなかったというばかりか、すでにジェームズ2世に対するイギリス国民の関心は低かったよう…
それでもジェームズは、生まれた娘は苦しい境遇にある一家の慰めとして神が遣わした子だとして、慰めを意味する"ラ・コンソラトリス"と呼んでいたといいます。
ちなみに、成長した彼女はヴェルサイユ宮殿で人気者だったといいますが、若くして天然痘で死去し、彼女の死によって多くの人々が深い悲しみに沈んだという逸話があります。
出典:Wikipedia(ルイーザ・マリア・テレーザ)
一方、ジェームズのラテン語名ジェイコブスに由来してジャコバイトと呼ばれた名誉革命の反革命勢力は、ジェームズおよびジェームズの子孫のイギリス王位復帰をねらい、1701年にジェームズが死去した後は息子のジェームズ・フランシスを中心として活動を続けましたが、これが叶うことはありませんでした。
息子の王位復権を訴え続けていたメアリーも1718年にこの地で死去しています。
ところで、ジェームズ2世を国外へ追放したとき、彼を処刑すべきという声もあった中、無傷でフランスへ逃がしたウィリアム3世の判断は彼の寛大さゆえと考えられていましたが、
実際には、ジェームズ2世が処刑された場合、殉教者として彼に同情が集まることを避けるためだったといわれており、彼の人気を今後も回復させないための策という見方が強いよう…
しかし、いずれにせよ名誉革命以上の混乱に巻き込まれることなく、一家そろってフランスで暮らせたのは不幸中の幸いといえそうですよね。
宮廷で大人気に!メアリーが披露したオランダ流のマナーとは?
メアリーは結婚前に、オランダにて最先端の教養や礼儀作法を身に着けており、夫が即位してロンドンの宮廷に移ると、オランダ仕込みのお茶の作法を宮廷に広めたことでも知られています。
出典:Wikipedia(メアリ―・オブ・モデナ)
この頃、貿易でリードしていたオランダではすでに喫茶の習慣が定着しつつありましたから、彼女が広めたのはそんなオランダで身に着けた最新のお茶のマナーでありました。
それまでは前王妃キャサリン・オブ・ブラガンザのポルトガル式でありましたが、メアリーがオランダ式のマナーを持ち込むと、それを塗り替えるように浸透していきます。
例えば、当時はお茶の入ったティーボウルからソーサーにお茶を移し、すすって飲むのが正式なマナーだったのだとか!
現代では何とも不思議な所作に思えますが、まだ熱いものを飲み慣れていない西洋人の工夫だったといわれています。
また、当時飲まれていた濃く煮出した渋いお茶を飲みやすくするためと、熱さを和らげるため、ミルクを加えたミルクティーが1680年代にフランスで広まり始めますが、これをいち早くイギリスの宮廷で取り入れたのもメアリーだといわれています。
ちなみに、ミルクのほか、当時高級品であった砂糖をお茶に溶けきれないほどたっぷり入れて飲むのが最高の贅沢だったのだとか!
現代ではそれほど大量の砂糖を入れて飲むわけにもいきませんが…当時のメアリーのように砂糖やスパイスを加えたミルクティーをゆっくり味わう贅沢な時間は今も昔も変わらないといえそうですよね!