出会いは結婚式当日だったジョージ3世とシャーロット王妃
ジョージ3世(1738-1820)は、イギリスのハノーヴァー王朝時代の王様です。
第3代国王として、1760年に戴冠してからの約60年間イギリスを統治し、その在籍年数は当時としては最も長いものとなりました。
出典:Wikipedia(ジョージ3世)
ジョージ3世が生まれた当時、国王は彼の祖父にあたるジョージ2世で、彼の父であるフレデリック・ルイスが皇太子、母はドイツ・ザクセン公国から嫁いできたオーガスタ・オブ・サクス=ゴータでした。
国王ジョージ2世と、皇太子フレデリック・ルイスの仲は険悪で政治活動においてもことごとく対立し、そのせいもあってか、孫にあたるジョージ3世に対しても、ほとんど関心を払わなかったそうです。
出典:Wikipedia(ジョージ2世)
出典:Wikipedia(皇太子フレデリック・ルイス)
風向きが変わったのは、皇太子フレデリック・ルイスの急死。跡継ぎがいなくなったジョージ2世は、後継者としてのジョージ3世に関心を持ち始めました。
また、祖父だけではなく、母であるオーガスタ(とその腹心であり、ジョージ3世の家庭教師であったピューと伯)も、将来の国王であるジョージ3世にあれこれと口出し始めるようになります。
その後、ジョージ2世が亡くなり、若干22歳にして正式に国王となったジョージ3世は、母オーガスタや家庭教師であったビュート伯(のちに首相となる)の影響を受けながら、国の統治に当たっていきます。
ちなみに、オーガスタとピュート伯は愛人関係と噂されたり、その政治に介入する姿勢から、国民からは不人気であったようですね。
出典:Wikipedia(オーガスタ・オブ・サクス=ゴータ)
出典:Wikipedia(ビュート伯)
母と元家庭教師(母の愛人?)の下で、従順な国王として人形扱いされていたジョージ3世ですが、このふたりの意見を、一度だけ突っぱねたことがあったのです。
それは結婚相手の選定。
ジョージ3世は、かつて、ピュート伯の意見にしたがって、好きだった相手(サラ・レノックス)との結婚をあきらめた経緯があるだけに、今回の結婚相手だけは、他人の意見に左右されることなく、自分の意志を通そうとしたのです。
出典:Wikipedia(サラ・レノックス)
しかし、ビュート伯や母親の目があり、表だって結婚相手探しは出来ませんでした。そこで、最も信頼していたグレイム大佐に花嫁探しを任せます。
そして、グレイム大佐が連れてきたのが、シャーロット・オブ・メックレンブルク=ストレリッツ(1744-1818)、後のシャーロット王妃です。
彼女が選ばれた理由が、「ドイツ北部辺境の有力ではない貴族出身なので権力闘争の経験も興味もないだろう」、とのことで、さらに、結婚式の直後、ジョージ3世がシャーロット王妃に短くかけた言葉は、「引っ掻き回すなよ」とのことなので、母と愛人の口出しによっぽど辟易していたんでしょうね。
出典:Wikipedia(シャーロット王妃)
芸術と自然をこよなく愛し、「ウェッジウッド」を見出したシャーロット王妃
さて、こんな形でスタートした、ジョージ3世とシャーロット王妃の夫婦生活ですが、あっという間に意気投合した二人は、夫婦でありながらも生涯の親友同士となり、子宝にも恵まれ、9男6女の15人の子供をもうけました。
出典:Wikipedia(ジョージ3世、シャーロット王妃と子供たち)
その理由として、シャーロット王妃は、ジョージ3世の助言(?)に従って、政治に口出しはせず、一方で、芸術に多大な関心を寄せるなど、才能豊かな女性であったこともあげられそうです。
出典:Wikipedia(シャーロット王妃)
音楽面では、王妃自身が、大バッハの息子ヨハン・クリスチャン・バッハに音楽を習っていたこともあり、バッハ親子や幼少のモーツァルトのパトロンにもなっています。実際、8歳のモーツァルトは、3曲のオペラをシャーロット王妃に献上しています。
シャーロット王妃の関心は、音楽に留まるものではありませんでした。その興味は、陶磁器へと向かいます。
シャーロット王妃は、1759年に創業したばかりのウェッジウッド社に注目し、その当時完成したばかりの「クリームウェア」を購入します。これはジョージ3世の関心も引き、夫婦そろってウェッジウッドの虜になったのです。
出典:Wikipedia(クリームウェア)
ウェッジウッドを大変気に入ったジョージ3世とシャーロット王妃は、ウェッジウッドを王室御用達の陶工に認定し、「クィーンズウェア」の称号を与えたのでした。
これを機にウェッジウッド社は、イギリス国内は勿論、アメリカやロシアなどからも注文が殺到し、瞬く間に世界のウェッジウッド社へと変貌を遂げたのです。
芸術を愛する同士、通じるものがあったのか、シャーロット王妃は、フランスのマリー・アントワネット王妃とも親密であったそうです。
実際に、顔を合わせたことはありませんが、手紙を通じて交流し、1789年のフランス革命の際には、心配を打ち明けたマリー・アントワネットに対して、イギリスに亡命用の家を用意し一家を受入れる準備もしていたそうで、マリー・アントワネットの処刑に際しては、大変悲しんだと言われています。
また、シャーロット王妃は、芸術面だけでなく、自然をこよなく愛する方であったようで、現在では、ロンドン郊外で市民の憩いの場ともなり、その膨大な資料からユネスコ世界遺産にも登録されている王立植物園「キューガーデン」も、このふたりの宮殿に併設された庭園がスタートとなっています。
農業を擁護し、その質素な暮らしぶりから、「ファーマー・キング(農業王)」とも呼ばれたジョージ3世と嗜好が似ている点も、夫婦仲の良さの秘訣だったのかも知れませんね。
浮気はしなかったものの、精神に異常をきたし、狂人と呼ばれてしまったジョージ3世
ジョージ3世は、それまでの国王とは違い、生涯一度も浮気をしなかった珍しい王様なのです。
ジョージ3世が浮気に走らなかったのは、やはりシャーロット王妃の素晴らしさがあったからなのでしょう。芸事に長けた才女でありながら、いつも控え目で、出過ぎた真似は一切しない女性だったと言われています。
更に、献身的に夫に尽くす良き妻として、国民にもたいそう愛されていました。「女性の鏡」とも形容されていたそうです。 しかし、浮気も無く、たいそう仲の良かった二人の間に不運が訪れます。
それは、ジョージ3世の狂乱。
そもそも、ジョージ3世の治世は、母親と元家庭教師の介入に加えて、1754-1763年の7年戦争(イギリスはプロイセンと同盟し、フランス・オーストリ・ア・ロシアと戦う)、1775年のアメリカ独立戦争(イギリスは敗北しアメリカの多くの植民地を失う)、1793-1815年はフランス革命の勃発からナポレオン率いるフランスとの戦い(ワーテルローの戦い)があるなど、紛争が絶えない時期で、心労も多かったと想像されます。
また、この精神異常に関しては、イギリスの歴代の国王、王妃の病気や症状を照らし合わせてみると、同じような精神異常を見せていた人物が何人か浮上し、ているから遺伝性のポルフィリン症という病気であったのでは、という説もあります。
いずれにしても、ジョージ3世の症状は、50歳を超えていよいよ重くなり、幻覚、不眠、吐き気、頭痛に悩まされ、鬱状態に陥り、果ては狂い出してしまい、その様子が余りにも酷かったこともあって、ジョージ3世は狂王とも呼ばれています。
このジョージ3世の狂乱っぷりは、「英国万歳!」(Madness of King George、1994)という映画にもなっており、オスカー女優でもあるヘレン・ミレンがシャーロット王妃役で出演しています。興味のある方は是非見てみてください。
出典:Den of Geek (「英国万歳!」)
精神異常がはじまったジョージ3世に対しても、シャーロット王妃はこれを支え続け、長男が摂政として政治をささえまますが、彼の病気は年とともに悪化します。
最後は、シャーロット王妃は、1818年に、キュー宮殿で摂政で長男のジョージに手を握られたまま亡くなり、夫であるジョージ3世も1年後にあとを追うようになくなります。
仲睦まじい夫婦でしたが、最後はちょっとさみしい別れでしたね。
参考資料
「王様でたどるイギリス史」池上俊一(著)、岩波ジュニア新書(2017)
「肖像画で読み解く イギリス王室の物語」君塚直隆(著)、光文社新書(2010)