伯爵家に生まれた貴族のチャールズ・グレイ
チャールズ・グレイ(1764-1845)は、イギリスのノーサンバーランドに生まれ育ちました。
ノーサンバーランドという場所は、イングランドの最北端に位置しており、すぐ北側にはスコットランドがあります。日本でいうと、岩手県とか青森県みたいな位置ですね。
出典:Wikipedia(チャールズ・グレイ)
なお、グレイ伯爵家は、ノーサンバーランドにあるハーウィックホールとファラドン・ホールを邸宅として使用していましたが、今現在は、ハーウィックホールのみ立ち入ることが出来、チャールズ・グレイ博物館と美しい庭を堪能することが出来るようになっています。
チャールズ・グレイは、男爵の出の陸軍将校の父とエリザベスという母の下、貴族階級の中で育ち、イートン校からケンブリッジ大学へと進んだエリートでもあります。
しかし、チャールズ・グレイは、ケンブリッジ卒業後すぐに政治家になったわけではありません。
王家の侍従を務めたり、グランドツアー(Grand Tour、当時のイギリスでは、裕福な貴族の子供が、学業を修めた後に海外旅行に行って見分を広めるのが流行していた)でヨーロッパ一周旅行に2年間ほど出かけたりし、見分を広めていたのです。
そして、1786年から政治活動に参加するようになります。
1806年に父が伯爵の位を叙位したことで、チャールズ・グレイも第二代グレイ伯爵を名乗るようになります(それ以前は、ホーウィック子爵と名乗っていた)。
侯爵夫人に私生児を産ませてから、結婚!
チャールズ・グレイは、政治活動を始めた当初、あまり人脈がありませんでした。
自分の売り出しにも悩んでいた時に、社交界で一人の女性と知り合います。
それは、当時社交界の華として大変な人気を誇っていた、デヴォンシャー侯爵夫人(ジョージアナ・キャヴェンディッシュ)でした。
出典:Wikipedia(デヴォンシャー侯爵夫人)
チャールズ・グレイは、ホイッグ党のチャールズ・ジェームズ・フォックスの派閥に属して政治活動を展開していたのですが、このデヴォンシャー侯爵夫人も熱心なホイッグ党の支持者だったのです。
ちなみに、「ホイッグ党(Whig)」は、1679年頃、カソリック教徒であったジェームズ2世の王位継承に反対する反王派が元になって組織された政党で、支持母体は貴族や都市部の商工業者、宗教的には寛容というかプロテスタント寄りの政党です。
これに対して「トーリー党(Tory)」は、親王派で、支持母体は農家、宗教的には厳格でカソリック寄りという傾向があります。
また、それぞれの名前の由来が面白くて、もともとは、対立する相手からなじられた言葉を自分たちの政党の名前にしてしまったということです。
現代で言うと、嫌いな相手から、変なあだ名をつけられて、でもそのあだ名を通称にしてしまうという、イギリス人のユーモアセンスが垣間見える出来事ですね。
- トーリー: 「アイルランドの追い剥ぎ野郎」(アイルランドは、敬虔なカソリックが多い土地柄)
- ホイッグ: 「スコットランドの狂信者」(スコットランドは、プロテスタントが多数派の土地柄)
また、相手をわざわざ、アイルランド人とスコットランド人に例えるあたり、連合王国として成立したばかりの大英帝国における課題、つまり、イギリス人がスコットランドとアイルランドをどことなく見下している感じが出ていて興味深いです。
さて、話がだいぶ横道にそれましたが、デヴォンシャー夫人の後押しもあって、チャールズ・グレイは自分の名を広めることに成功します。
しかし、デヴォンシャー夫人との間は、ただの政治仲間ではすみませんでした。
男女の仲になった二人の間には、1792年に女児が誕生します。
デヴォンシャー侯爵がこの私生児の存在を認めるわけもなく、イライザと名付けられたその女の子は、グレイの実家に引き渡されます。
イライザは、チャールズ・グレイの妹として、グレイ家に育てられることになります。
その後、そんな不倫愛のことなど無かったかのように、チャールズ・グレイはウィリアム・ポンソンビー男爵の娘メアリーと結婚します。イライザが生まれた2年後のことです。
そして、メアリーとの間に10男6女!の計16人の子供をもうけたのです。イライザを含めて実子は17人という計算になります。大変な子沢山だったわけですね。
出典:artnet.com(ポンソンビー男爵の娘メアリー)
ところで、デヴォンシャー侯爵夫人との不倫愛については、映画「ある侯爵夫人の生涯」(The Duchess, 2008)でも詳しく見ることが出来ます。
チャールズ・グレイの出番もかなりあるので、気になる方は是非一度ご覧ください。
出典:All Movie(The Duchess)
最終的に、グレイ伯爵はホイッグ党の指導者として、1830年にはイギリス首相にまで上り詰め、選挙法や救貧法の改正などに関わりました。
紅茶「アール・グレイ」の名前の由来は、チャールズ・グレイから?
紅茶には、ダージリン、アッサム、アールグレイなど、いくつもの茶葉の種類がありますが、この中でも、アールグレイは、ベルガモットと呼ばれる柑橘類の果実の精油で着香した中国紅茶のブレンドで、いわゆるフレーバーティーと呼ばれるものです。
原料には、中国のキーマン茶を用いることが多いのですが、各紅茶ブランドによって使用する原料も幅広いです。
中にはダージリンを原料に用いるところもあります。
ところで、アール・グレイという名前のうち、アール(Earl)は英語で「伯爵」を意味するため、すなわち「グレイ伯爵」チャールズ・グレイから来ているのではないか、と言われています。
一説には、チャールズ・グレイが中国に外交使節団を送った際に、中国の高官の窮地を救ったお礼に献上されたのが柑橘類で着香したフレーバーティーでした。
これを大変気に入ったチャールズ・グレイがイギリスでこの味を再現すべく、グレイ伯と親交が深かったトワイニング社が開発したが、「アール・グレイ」だと言われています。
出典:https://www.twinings.co.uk/(アール・グレイ)
一方で、この説に待ったをかけたのが、同じく紅茶販売のジャクソン社。
グレイ伯の出入りの紅茶店を吸収したのは自社であり、我こそは「アール・グレイ」の元祖だと主張しました。
出典:https://www.twinings.co.uk/(アール・グレイ)
結局、この2社は1990年頃に合併したので、元祖争いは終結したのですが、最近になって、いやいや当時の中国には、そもそも柑橘類で着香したお茶はなかったはずで、アール・グレイ誕生とチャールズ・グレイは全く関係がないのではないか、との説も出てきています。
アール・グレイ誕生の真相解明には、もう少し時間がかかりそうですが、この紅茶がいかにイギリス国民から愛されてきたかを如実に物語る論争と言えそうですね。
参考資料
ヘレン・サベリ(著)、竹田円(訳)、「お茶の歴史」、原書房(2014)