ハプスブルグ家出身の啓蒙専制君主としてオーストリアを改革
マリア・テレジア(1717-1780)は、1717年にオーストリアのウィーンのハプスブルグ家に生まれます。
出典:Wikipedia(マリア・テレジア)
18世紀前半のヨーロッパといえば、イギリスでは議会政治のもとで植民地を拡大、フランスでは太陽王と呼ばれたルイ14世の絶対王政のもとでこちらも植民地を拡大、この両国が実質的なツートップとして、ヨーロッパだけでなく、海外での植民地の獲得争いが白熱していた時代です。
これに対して、オーストリア、ドイツ(プロイセン)、ロシアの3国は、これら2強と比べると、やや遅れた後進国としての焦りのある状況で、一刻も早く強国の仲間入りをするためにも、中央集権的に上からの改革を進めていきました。
これらの国の君主は、当時ヨーロッパで流行していた、旧時代の神学や聖書などの権威から離れて、理性によって世界の秩序を捕えよう、とする改革的な考え方(啓蒙思想)になぞらえて「啓蒙専制君主」と呼ばれます。
その代表格が、オーストリアのマリア・テレジア(1717-1780)、ドイツ(プロイセン)のフリードリヒ2世(1712-1786)、そしてやや遅れて生まれてきた、ロシアのエカテリーナ2世(1762-1796)です。
出典:Wikipedia(フリードリヒ2世)
オーストリアとドイツ(プロイセン)の争い
さて、この後進国であったオーストリアとドイツ(プロイセン)、遅れた国同士で協力して、イギリス・フランスを追いかければ良さそうなものですが、実際には、寧ろこの2国間で争う時代が続くようになります。
オーストリア承継戦争(1740-1748)
出典:Wikipedia(オーストリア承継戦争)
先に仕掛けるのは、ドイツ(プロイセン)のフリードリヒ2世。
マリア・テレジアの父カール6世には男の子の世継ぎがいなかったため、当時、女性の世襲は認められていなかったもかかわらず半ば強引に、23歳のマリア・テレジアにハプスブルグ家(神聖ローマ帝国)の女君主としての地位を引き継がせることになります。
正確には、「神聖ローマ皇帝」という称号は夫のフランツ1世が持つことになったものの、政治の実権は完全にマリア・テレジアが持っていました。
これを見て、若い女主人などちょろい、と思ったのかどうか、ドイツ(プロイセン)のフリードリヒ2世は、マリア・テレジアの世襲を認ない、鉱業資源の豊富なシュレジエンの土地を寄こせ、と難癖をつけます。
これに同調したのがフランス・スペイン。
一方のオーストリアはイギリスからの経済支援を取り付けられただけでした。
当初、この争いはフランスを味方につけたドイツ(プロイセン)側が圧倒的に優勢で、オーストリア支配下にあったハンガリーですら、ドイツ(プロイセン)側につくか、オーストリア側につくかで揺れ動いていた状況でした。
追い詰められたマリア・テレジアは、ハンガリー議会を訪れ、乳飲み子であった長男ヨーゼフを抱えて涙ながらに劇的な演説をうち、ハンガリーを味方に引き入れることで、結局、シュレジエンの土地は失ったものの、なんとか神聖ローマ皇帝の地位を夫が継ぐことを認めさせます。
富国強兵と「3枚のペチコート作戦」!
オーストり承継戦争は終結したものの、今度はマリア・テレジアが、フリードリヒ2世への復讐と、シュレジエン地方の奪回、を目指して富国強兵につながる取り組みをはじめます。
そもそも、神聖ローマ帝国は、たくさんの小さなな王国や貴族の領地を寄せ集めてできたような国家で、まとまりがないという問題点があったため、中央集権的な仕組みに改めます。
軍隊に関しては、士官学校を設立し徴兵制を見直すなど近代化を進めることで強化を図ります。
さらに、財源を確保するために、税制も見直し、税金の徴収を各地の領主にまかせず国が直接管理する、それまで税金を免除されていた教会へも課税するなどの改革をすすめます。
その他、義務教育制度の導入、病院の設置、風紀の引き締めなども行っています。
また、外交面では、これまでのイギリス重視の姿勢から、長年の宿敵でもあったフランスと、同じく後進国であったロシアと手を結ぶ方向へ大きく舵を切り直し、ドイツ(プロイセン)を孤立させることに成功します。
これは、オーストリアにとっては先の戦争で経済援助はしてくれたものの軍隊を派遣してくれなかったイギリスに対する不信感があり、フランスにとっては強大化してきたドイツ(プロイセン)に危機感をもっていた、という背景があって成立した同盟関係です。
この外交政策を主導したのが、マリア・テレジアのほか、フランスでは国王ルイ15世の愛人であったポンパドゥール夫人、ロシアではエリザヴェータ女王と3名の女性であったことから、「3枚のペチコート作戦」とも呼ばれます。
出典:Wikipedia(ポンパドゥール夫人)
出典:Wikipedia(エリザヴェータ女王)
7年戦争(1756-1763)
ヨーロッパの中で孤立したことを知ったドイツ(プロイセン)のフリードリヒ2世は驚愕し、オーストリアへ先制攻撃を加えました。
しかし、フランス・ロシアを味方につけ、軍隊も強化したオーストリア軍が終始優勢で、たびたび窮地に立たされたフリードリヒ2世は、いつでも自死できるよう常に毒薬を身につけていた、とさえ言われています。
出典:Wikipedia(1760年のヴァールブルクの戦いの再現)
ところが、ロシアの女帝エリザヴェータの死去により、戦況が大きく変わります。
彼女のあとを継いだピョートル大帝がフリードリヒ2世びいきであったためロシアが裏切り、両軍は引き分け、シュレジエン地方はドイツ(プロイセン)の領土となることで決着しました。
私生活では、恋愛結婚をし、相次ぐ戦争中にも次々と子供をもうけた肝っ玉母さん
政治の世界では、類まれな才能を発揮してオーストリアを強国へ導き、まさに女帝といった貫録のマリア・テレジアですが、意外にも男女の仲に関しては潔癖というか、すごく純粋なところがあったようです。
マリア・テレジアは、17歳でロートリンゲン公子のフランツ1世と結婚しましたが、この結婚は、なんと恋愛結婚だったのです!
出典:Wikipedia(少女時代のマリア・テレジア)
マリア・テレジアが、オーストリアに留学しに来ていたフランツ・シュテファンを見初め、父であるカール6世がフランツ1世をたいそう気に入ったために成立したとのことですが、王族の結婚と言えば政略結婚が普通であった当時にあっては、たいそう珍しい出来事であったようです。
また、二人の間はたいそう良好で、子供も男5人、女11人の計16人の子宝に恵まれます。
このうち11女は、皆様ご存知、フランスとの関係強化のためにルイ16世に嫁いだマリー・アントワネットです。
出典:Wikipedia(マリア・テレジアと家族)
一方のフランツ1世の方は、マリア・テレジアほど妻にベタ惚れだったというわけでもなく、時々浮気もしていたようで、一度の関係で子供まで作ってしまったこともあったようです。
しかし、マリア・テレジアは政治で忙しく、夫のことを構ってあげられないという後ろめたさもあってか、浮気には比較的、寛容だったと言われています。
マリア・テレジアはよほど夫に惚れ込んでいたのでしょうか、フランツ1世が1765年に他界してからも、自分が死ぬまでの15年間は、喪服以外のものは身に付けなかったということです。
アウガルテン窯とカフェの発展を支援したマリア・テレジア
マリア・テレジアが生まれた年の前年(1718年)、ウィーンの街に素晴らしい陶磁器が誕生しました。
それが、世界初の磁器コーヒーカップを作ったアウガルテン(AUGARUTEN)でした。
マイセンの誕生から9年後に誕生したこの陶磁器は、真っ白い白磁に繊細な絵柄が特徴の優美な手作り陶磁器として人気を博しました。
1744年には、マリア・テレジアがアウガルテンを皇室直属の磁器窯に認定し、ハプスブルク皇室の盾形紋章を用いることを許可し、アウガルテンは、インペリアルウィーン磁器工房として、「ウィンナローズ」や「マリアテレジア」といった代表作を次々と発表しました。
ちなみに、「マリアテレジア」と命名されたシリーズの陶磁器は、マリア・テレジアの狩猟の館であったアウガルテン宮殿のディナーセットとして作られたものでした。
出典:https://www.augarten.com/(マリア・テレジア)
アウガルテンの陶磁器が人気を高めるようになると、ウィーンのカフェでもアウガルテンの陶磁器が用いられるようになりました。
そもそもウィーンにカフェが誕生したのは1685年のことでしたが、アウガルテンが誕生した頃はまだまだカフェの人気は下火で、ウィーン市内にカフェは4軒ほどしかなかったそうです。
しかし、アウガルテンの人気とマリア・テレジアの珈琲、お茶好きが手伝って、マリア・テレジアが女帝として君臨した時代にはカフェの数も50軒に増えました。
今でこそ、カフェの街ウィーンとして知られていますが、それが始まったのはマリア・テレジアの時代だったのです。
参考資料
「ハプスブルク君主国1765-1918―マリア=テレジアから第一次世界大戦まで」ロビン・オーキー(著)、山之内克子(訳)、エヌティティ出版(2010)