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新古典主義|新しい時代の幕開けと古典への回帰(1750-1800年頃)
時代は新しく、様式は古典へ 18世紀に起きた2つの革命の余波は、19世紀のヨーロッパ社会に大きな影響を与えました。 イギリスで起こった産業革命は蒸気機関車の登場や新しい動力が生まれたことで、それまでの産業の構造を一変させ、経済は一気に資本主義へと舵を切りました。 出典:Britanica(ス...

サヴォーナ|ルネサンス文化を花開かせた教皇を生んだ港町

「母をたずねて三千里」というアニメを覚えていますか? 

少年マルコが母を探して船旅に出た港、あれはイタリア、リグーリア州の首都ジェノバ(Genova)だったのですが、そのジェノバから電車でおよそ1時間、港町サヴォーナ(Savona)に到着です。


バロック|「ゆがんた真珠」のようなダイナミックな動きとドラマチックな演出(1680-1720年頃)

ポルトガル語で「ゆがんだ真珠」を意味するバロック美術を知るためのキーワードは「ドラマチックな演出」です。

ルターの宗教改革以降プロテスタント(新教)に押されていたカトリック教会(旧教)は、起死回生を狙って、信者獲得のため親近感のある教会づくりに挑みます。そのような目的に伴って発展したのがバロック芸術です。


マニエリスム|ルネサンスの三大巨匠をお手本にして、奇抜な美術様式に発展(1530-1600年頃)

マニエリスムのキーワードは「お手本は巨匠」です。

ミケランジェロを師と仰いでいたヴァザーリ(Giorgio Vasari)は著書「画家・彫刻家・建築家列伝」(Le Vite delle più eccellenti pittori, scultori, e architettori)でミケランジェロを筆頭に3人の巨匠の「手法(マニエラ maniera)」を芸術的最高のものとし「美しい様式(ベルラ・マニエラ)」と称えました。


ルネサンス|世界の中心は神ではなく「人間」(1400-1530年頃)

ルネサンスを知るためのキーワードは「世界の中心は神ではなく人間」です。

時は15世紀も開けたばかりの1401年。

イタリア、フィレンツェではこの年サン・ジョヴァンニ洗礼堂 (Battistero di San Giovanni)の北の門を飾る彫刻を手掛けるアーティストを選ぶコンクールが開催されました。


カルロス3世とマリア・アマリア|ドイツから、イタリア、そしてスペインへ!政略結婚によって広まったマイセン磁器の技術

ナポリ・シチリアの王として即位し、後に王位を息子に譲ってスペイン王となるカルロス3世(1716-1788)は、スペイン王フェリペ5世と、彼の2番目の妃でイタリア北部のパルマ公女エリザベッタ・ファルネーゼとの間に生まれます。

父フェリペ5世には既に世継ぎとして先妻の子フェルナンド6世がいたため、カルロス3世は、母エリザベッタがイタリア北部のパルマ公国出身であったこともり、王子時代にはパルマ公を務めていました。


フランチェスコ1世・デ・メディチ|ヨーロッパ最初の磁器製造を試みた、スキャンダルまみれのメディチ家当主

「メディチ家」と聞くと、何を最初に連想しますか?

成金? 金融? 借金取り? 毒薬? 殺人?

どれもあまり好印象とは言えないものが多いかも知れません。

メディチ家は、ルネッサンス期を代表する一族で、銀行家、政治家として当時のフィレンツェを牛耳っていました。

フランチェスコ1世・デ・メディチ(Francesco I de' Medici、1541-1587)は、このメディチ家の出身で、1584年に、日本の九州の大名がローマ教皇に向けて使節として派遣した4人の日本人少年(天正遣欧少年使節)に、イタリアでの謁見を果たした人物でもあります。

 


ロッビア一族|ルネッサンス期のイタリアに、マヨリカ陶器の技術で新しい陶彫を生み出した

1401年にルネサンスの幕開けともいわれる、洗礼堂の門の彫刻制作のためのコンクールがフィレンツェで開かれます。

当時フィレンツェにはこのコンクールの勝者となったギベルティーをはじめ、ライバルでのちに大聖堂の丸天井の設計に携わるブルネレスキ、ブルネレスキの友人のドナテッロなど錚々たる彫刻家たちが活躍していました。

そのドナテッロと競作することとなった、フィレンツェの大聖堂のための大理石の聖歌台を作ったのがルカ・デッラ・ロッビア(Luca della Robbia、1400-1481)でした。


モンテルーポ|フィレンツェの食卓を彩ったマヨリカ陶器

フィレンツェから電車に乗って15分も走ると、その景観は一遍し、車窓にはのどかな田園風景が広がります。

普通列車で30分ほどで、モンテルーポ・カプライア(Montelupo-Capraia)駅に到着、駅員のいない無人駅です。

古くからモンテルーポには特出した産業はありませんでした。唯一この街を支えた陶器作り以外には。

この街の陶器が注目されるようになったのは1406年フィレンツェが念願だった港、ピサ(Pisa)を手中に治めてからのことです。


ウルビーノ|「マヨリカのラファエロ」が生んだ鮮やかな黄色い陶器

ルネサンス期、フィレンツェやローマにも劣らない素晴らし芸術が花開いていたウルビーノでは陶器の製作も非常に盛んで、各地から優れたイストリアート(説話画)の陶芸家が集まり、腕を競っていました。

その中でも特に優れた才能を発揮していたのは、ニッコロ・ペッリパリオ(Niccolò Pellipario)通称二コラ・ダ・ウルビーノ(Nicola da Urbino)です。

二コラは作風や芸術レベルの高さから同郷のラファエロとよく比較され、「マヨリカのラファエロ」とも呼ばれています。


リチャード・ジノリ|メディチ家、そしてハプスブルク家に愛された「トスカーナの白い肌」

1710年マイセンがヨーロッパ初の硬質磁器を誕生させます。マイセンは磁器の製造方法を門外不出としていたにもかかわらず、その製法はヨーロッパ各国へと伝わっていきます。

1718年にはオーストリア・ウィーンのアウガルテン窯が磁器製造に成功し、そして、イタリアでは、1735年にトスカーナ大公国の貴族でありながら、化学・鉱物学にも造詣の深かったカルロ・ジノリ侯爵 (Carlo Ginori) がフィレンツェ郊外のセストフィオレンティーナのドッチア(Doccia)という場所に磁器窯を開きます。

ヨーロッパでは3番目、イタリアでは初の硬質磁器の誕生です。


「遥かなるルネサンス」(東京富士美術館・八王子)|4人の少年がみたイタリアのルネサンスと陶磁器

先日、現在東京八王子の東京富士美術館で開催中の「遥かなるルネサンス 天正遣欧少年使節がたどったイタリア」展に行ってきましたので、その見どころをご紹介したいと思います。


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