ポルトガル語で「ゆがんだ真珠」を意味するバロック美術を知るためのキーワードは「ドラマチックな演出」です。
カトリック教会の復活
17世紀、絶対王政の真っただ中にあったヨーロッパ。「太陽の沈まぬ帝国」スペインは新大陸へ領土を広げ、オーストリア系ハプスブルク家はオスマントルコを破り、16世紀に産声をあげたイエズス会は信徒を求めて世界に出ていきました。
ルターの宗教改革以降プロテスタント(新教)に押されていたカトリック教会(旧教)は、起死回生を狙って、信者獲得のため親近感のある教会づくりに挑みます。そのような目的に伴って発展したのがバロック芸術です。
それぞれの地域で独自の発展を遂げたバロック芸術ですが、ダイナミックな動きやドラマチックな演出、そして時には強烈ともいえる明暗の使い分けが共通した特徴の1つと言えるでしょう。
イタリアのバロック芸術
イタリアのバロックは、絵画部門をカラヴァッジョが、彫刻部門をベルニーニがけん引して行きます。
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ( Michelangelo Merisi da Caravaggio)は静物画や風俗画などの身近な題材の作品を描いたり、宗教画にも神としての神々しさを描くよりは、まるで自分の身近にいる人物のような現実的で生々しい作品を描きました。
出典:Wikipedia(ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ)
あまりにも場面を生々しく描いたため、注文主から作品の引き取りを断られたことも、1度や2度ではありません。カラヴァッジョの作品の最大の特徴は強烈な光と闇のコントラストを巧みに用いて、非常にドラマチックなシーンを描きました。
コンタレッリ礼拝堂 (Cappella Contarelli)に描かれた「聖マタイの召命」はそれ以前に使われていた明暗法よりさらに光と影のコントラストが強く表れる方法を用いてよりリアルな緊張感を表現しています。
出典:Wikipedia(「聖マタイの召命」カラヴァッジオ作)
カラヴァッジョが新しく編み出したこのような作風はその後ヨーロッパ全体に大きな影響を及ぼしました。
彫刻によってドラマチックなシーンを造りだしたのがジャン・ロレンツォ・ベルニーニ(Gian Lorenzo Bernini)です。マルチな才能にあふれたベルニーニは、早くから教皇の下で才能を発揮していました。
出典:Wikipedia(ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ)
彫刻だけでなく、サン・ピエトロ大聖堂(San Pietro)をはじめとするローマの街全体の造形に携わり、広場や宮殿のモニュメントや噴水なども手がけました。現代でもローマの街中で彼の作品を多数見ることができます。
数多い傑作の中でも最もバロックらしい作品はローマのサンタ・マリア・デッラ・ヴィットーリア聖堂(Santa Maria della Vittoria)のコルナーロ礼拝堂(Cappella di Cornalo)の「聖女テレジアの法悦」でしょう。
出典:Wikipedia(「聖テレジアの法悦」ベルニーニ作)
天使が気絶している聖女の胸を矢で射抜こうとしている瞬間をとらえた、劇的なシーンを演出したもので、上から降り注ぐ光がさらに緊迫感を増しています。
ベルニーニは礼拝堂の建築も請け負っていて、まさに建築と彫刻を融合し、最高にドラマチックな場面を作り出しました。
バロック期にはこのように建築と彫刻や建築と絵画など総合芸術が花開き、まるで舞台装置のような効果で、イリュージョンの世界へ人々を導きました。
ピエトロ・ダ・コルトーナ(Pietro da Cortona)がバルベリーニ宮殿(Palazzo Barberini)の天井に描いた「 神の摂理」はその最たるものと言えるでしょう。
出典:Wikipedia(「神の摂理」ピエトロ・ダ・コルトーナ作)
17世紀初頭のローマは並外れた才能をもつ様々な分野の芸術家があふれていて、ルネサンスから続いて来た美術の中心は、フィレンツェからローマにとってかわられていました。
フランドル(現在のベルギー)のバロック芸術
16世紀中ごろのネーデルラントはカトリック王国(旧教)であったスペインの支配下に置かれますが、プロテスタント(新教)が強かった北部7州は フェリペ2世に反発した戦争の末にオランダ共和国として独立、一方、南部のフランドルはカトリックとして引続きスペインの支配下にとどまります。
こうした政治的背景が、美術の分野にも色濃く表れてくるのがこのバロック期です。
日本ではアニメ「フランダースの犬」でもおなじみですが、外交官などもしていて、ヨーロッパ中を股にかけていたピーテル・パウル・ルーベンス(Peter Paul Rubens)はフランドルのバロックを代表する画家です。
出典:Wikipedia(ピーテル・パウル・ルーベンス)
商業防衛都市として繁栄していたアントワープにアトリエを構え、多くの弟子を抱えていたルーベンスは、ヨーロッパ中の王家や貴族を顧客をもち、ダイナミックな構図と輝く色彩で数多くの傑作を生み出しました。
中でもパリのリュクサンブール宮殿の装飾用にフランス王太后マリー・ド・メディシスが注文した 24点もの連作絵画 「マリー・ド・メディシスの生涯」です。
出典:Wikipedia(ルーヴル美術館で展示されている「マリー・ド・メディシスの生涯」)
ルーベンスの弟子の一人、アンソニー・ヴァン・ダイク(Anthony van Dyck)は、のちにイングランドに渡り、イングランド国王チャールズ1世の主席宮廷画家として活躍しました。
イングランドの芸術は長らく不毛で、ヴァン・ダイクはその死後150年に渡ってイングランドの美術に影響を与え続けました。
オランダのバロック芸術
プロテスタントは偶像崇拝を禁じていました。
しかし、プロテスタントの国になったオランダでは経済が発展し、市民階級の人々が美術の担い手となっていて、市民たちは身近で、現実的で、分かりやすい作品を求められるようになりました。
その結果、それまでは絵画のジャンルの中でも非常に価値が低かった風景画や風俗画、静物画が独立したジャンルとして認められ、発展することになります。
17世紀オランダ最大の画家はレンブラント・ハルメンソーン・ファン・レイン(Rembrandt Harmenszoon van Rijn)です。
出典:Wikipedia(レンブラント「自画像」1640年)
彼の最高傑作は、現在アムステルダム国立美術館(Rijksmuseum Amsterdam)所蔵の「夜警」でしょう。キアロスクーロと呼ばれる明暗法を駆使したことによりドラマチックなシーンを演出しています。
出典:Wikipedia(「フランス・バニング・コック隊長の市警団 (夜警)」レンブラント作、1642年)
そして17世紀後半に登場するのは、日本人には絶大の人気を誇るフェルメールです。レンブラントとは異なり、光の満ちた暖かい室内の風景など多く描きました。
出典:Wikipedia(「真珠の耳飾りの少女」フェルメール作、1665年)
他にも微妙な表情を巧みに描きだした肖像画の分野で活躍したフランス・ハルスなどがこの時期オランダで活躍していました。
このような画家たちがオランダ黄金時代の絵画を支えていました。ただ、オランダ黄金時代は他国のバロック期と時期的には一緒しますが、オランダの絵画には他国のバロックの影響は見られません。
スペインのバロック芸術
レコンキスタ(国土回復運動)が成就し、カトリックの下に国土を回復したスペインでは、フィリペ4世の下スペイン絵画の黄金時代を迎えていたスペインでは、スルバラン(Francisco de Zurbarán)やムリーリョ(Bartolomé Esteban Perez Murillo)など優れた画家が多数活躍していました。
その中でも宮廷画家となったベラスケス(Diego Rodríguez de Silva y Velázquez)はスペイン・バロックの最大の巨匠として君臨しています。
出典:Wikipedia(ベラスケス「自画像」)
王家の肖像画として描かれた「ラス・メニーナス」は西洋美術史において最も重要な絵画の1枚とされています。多くの謎を含んだこの作品は、光と影をうまく使い、人間の本質に迫る表現を描きました。
出典:Wikipedia(「ラス・メニーナス(女官たち)」ベラスケス作、1656年)
参考資料
鑑賞のための西洋美術史入門、視覚デザイン研究所