時代は新しく、様式は古典へ
18世紀に起きた2つの革命の余波は、19世紀のヨーロッパ社会に大きな影響を与えました。
イギリスで起こった産業革命は蒸気機関車の登場や新しい動力が生まれたことで、それまでの産業の構造を一変させ、経済は一気に資本主義へと舵を切りました。
出典:Britanica(ストックトン・ダーリントン鉄道、1825年にイギリスで開業した世界で最初の蒸気機関車を牽引に使用した公共用鉄道)
そしてもう1つの革命であるフランス革命は、絶対王政が廃止され、市民の権利が認められるようになりました。
そんな19世紀の新しいヨーロッパにはそれまで続いてきた王や貴族趣味のロココのようなこってりした装飾は好まれませんでした。新しい時代の人々が好んだのは、時代とは正反対の古典スタイルだったのです。
過去の様式の復活の契機となったのは、1738年の南イタリアのヘルクラネウム(現在のエルコラーノ)と、1748年のポンペイの再発見です。
出典:Wikipedia(ヘルネクライムの遺跡)
出典:Wikipedia(ポンペイの遺跡)
2つの都市は紀元前79年8月24日、ヴェスヴィオ(Vesuvius)火山の大噴火により一瞬で灰や火砕流で埋もれてしまいました。灰の下に隠れたローマ時代の街からは、当時の生活や文化が伺える多くの貴重なものが発掘され、この新発見で一気に考古学ブームが起こったのです。
出典:Wikipedia(「ポンペイとエルコラーノの壊滅」(ジョン・マーティン作、1821年)
しかし、考古学ブームを過熱させたのはポンペイなどの発見だけではありません。
17562年、イギリスの建築家ジェイムズ・ステュワートとニコラス・レヴェットが、2年間におよぶアテネでの遺跡の調査活動の成果をまとめ、「アテネの古代遺跡(Antiquities of Athens)」を出版。
出典:Wikipedia(アテネの古代遺跡)
ドイツでは、ドイツの美術史家ヨハン・ヨアヒム・ヴィンケルマンが「ギリシャ美術模倣論」(1755年)、「古代美術史」(1764年)を出版します。
出典:Wikipeda(「古代美術史」のタイトル ページの図表。ヴィンケルマンが、古代ギリシャの詩人ホメロス、ローマ創設神話のロムルスとレムスと狼、スフィンクス、エトルリアの壺に囲まれている)
ヴィンケルマンは、「芸術は自然を理想化すべきもの(美のイデアを表すもの)であり、それは古代ギリシャにおいて達成されている、従って我々が目指すべきは古代ギリシャの模倣である」、と説きました。
ローマ人はギリシャを模倣しただけであり、古代ギリシャこそが模範となる「高貴なる簡素さと静寂なる偉大さ」を備えていると考え、美術の目的はそれを復活させることにあると説きました。これこそが新しいヨーロッパに起こったスタイル、新古典主義の理論的支柱となりました。
また、ヨーロッパに平和が訪れ、安全に旅が出来るようになったこの時期、元祖卒業旅行と言えるような、イギリスの裕福な家の子弟が学業終了時にイタリアやフランスなどを訪れるグランドツアー(Grand Tour)が盛んになります。
交通網が格段に整えられた18世紀末から19世紀初頭、イギリス人の若者たちは文化的先進国だったイタリアやフランスを訪れ、美術や遺跡を見て周り見識を深めることが一大ブームになり、新古典主義をイギリスまで広める要因となりました。
新古典主義
“新”古典主義というからには、“旧”があるのでは?と単純に考えてしまうものですが、広義では古典主義とはヨーロッパでギリシャ・ローマの古典古代を理想と考え、その時代の学芸・文化を彫藩として仰ぐ傾向のことで、均整・調和などがその理想と考えられていました。
最初に古典復活運動が盛んになったのはイタリアのルネサンスです。ルネサンスは「再生」「復活」を意味するフランス語で、ギリシャ、ローマなどの古典文化を復興しようとする文化運動でした。
その後も古典主義はヨーロッパ美術の根底にいつも存在していました。17世紀フランスも古典主義の時代と言われます。
ただ新古典主義はそれまでの古典主義とちょっと違っていました。
例えばギリシャよりも、フランス革命の理念により近いローマの市民道徳や自由な理念を重んじ、バロックの大げさな身振りや前時代のロココの軽薄な官能性を完全に否定したところです。
18世紀前半から半ば頃、フランスではルイ15世とその取り巻きの女性たちが好んだ王宮芸術のロココ様式が大流行をしていましたが、18世紀半ばになるとこのようなロココ様式の過剰な虚飾を軽蔑する人々が現れました。
反ロココの筆頭は、百科全書の編纂で知られる哲学者にして美学研究家のドゥ二・ディドロ(Denis Diderot)です。ディドロは近代芸術批評家の元祖とされています。
出典:Wikipedia(ドゥニ・ディドロ)
結局ロココはフランス革命により王政が崩壊したのと共に消滅、新古典主義がフランス美術を牽引することになります。
新古典主義を代表する画家はジャック=ルイ・ダヴィット(Jacques-Louis David)とジャン=オーギュスト=ドミニク・アングル( Jean-Auguste-Dominique Ingres)です。
これはダヴィットの代表作「アルプスを越えるナポレオン」です。
出典:Wikipedia(「アルプスを越えるナポレオン」1801)
ローマ賞を受賞し数年間ローマで学んだ経験もあるダヴィットは熱心な革命支持者で、ナポレオンの肖像画を複数制作しています。
ちなみにナポレオンの第一帝政時代の新古典主義は、鈍重で威圧的な雰囲気を漂わせる帝政様式へと変貌していきました。この様式は「アンピール様式(Empire)」と呼ばれています。
そのダヴィッドがナポレオンの没落に伴い1816年にブリュッセルに亡命した後、フランスの古典主義的な絵画を引き継いだのがアングルです。
出典:Wikipedia(「グランド・オダリスク」1814)
ダヴィッドに師事した後、イタリアでルネサンスの古典様式を学んだアングルは、特にラファエロの作品に心酔し、これを規範として緻密な構成、線による明確な形体、理想化された形式美などを使った歴史画、神話画、肖像画など数々の傑作を残しました。
この作品はアングルがサロンに出展した作品ですが当時は酷評されています。
アングルが評価されるようになるのは、ロマン主義が台頭してきたころのことで、ドラクロワとの対立はフランス美術界を大きく賑わしました。
イギリスでは、グランドツアーでローマを訪れ、古代遺跡をテーマにした版画家・建築家のピラネージと知り合い、多くの影響を受けた建築家ロバート・アダムがいます。
出典:Wikipedia(ロバート・アダム、1728-1792)
ポンペイなどの古代遺跡の調査も行い、英国へ帰国後にこれらの遺跡研究の成果を発表して名声を得、建築家として有名になりました。
イギリスではそれまでパラディアン様式というイタリア人建築家パラディオの建築様式を忠実に引き継いだ古典様式の建築が主流でしたが、1760年代末、ロバート・アダム兄弟が中心となり古代ギリシャ・ローマをモデルとする新古典様式で多くの貴族の邸宅、カントリーハウスなどが建築、改築されました。
出典:Wikipedia(アダム様式の内装が施された「ハーウッド・ハウス」。イギリス・リーズ近郊)
ロバート・アダムは古代遺跡に見られるグロテスク模様を当世風に洗練にアレンジし、古代装飾や色彩などをベースに独創的なデザインを次々と生み出しました。
また建築だけにとどまらず、家具や暖炉、ドア、天井、カーペットなどの室内装飾までデザインしました。ローマ様式を取り入れた室内装飾は「アダム・スタイル」と呼ばれ、人気を博します。
例えば天井は漆喰の枠取り装飾で複雑な幾何学文様に分割。それぞれの面はポンペイの装飾からとられた装飾された寓話像が描かれています。
出典:Wikipedia(「ハーウッド・ハウス」ギャラリー)
室内には天井の文様と呼応する絨毯が敷かれています。室内の装飾は全て調和するようにデザインされていました。
出典:Wikipedia(「ハーウッド・ハウス」ライブラリー)
出典:Wikipedia(「ハーウッド・ハウス」ベッドルーム)
このようなアダムのデザインは、陶芸家ジョサイア・ウェッジウッド(Josiah Wedgwood)をはじめ、あらゆる芸術分野に影響を与えたといわれています。
出典:Wikipedia(ジョサイア・ウェッジウッド)
新古典主義とイギリス窯
フランスでは既に国産磁器の製作が可能になっていたころ、イギリスでは磁器の原料となるカリオンが採掘できなかったため苦戦を強いられていました。
更に追い打ちをかけたのは、資金不足でした。18世紀初頭のイギリスは、その前時代に王政復古、名誉革命といった混乱の直後で、王の権力が弱かったため、国を挙げての磁器製作はできず、民間の中小資本で磁器製作が進められていました。
アン女王以降にアフタヌーンティーなど紅茶を飲む習慣が流行の兆しを見せるに従い、磁器の需要は増え、次々と新しい陶磁器工房が生まれる中で、唯一成功を収めていたのは1759年創業のウエッジウッド窯でした。
1765年「クリームウェア」シリーズを開発し、なめらかな質感がシャーロット王妃の称賛を呼び“クイーンズ・ウェア”(女王の磁器)と命名することを許されました。
出典:Wikipedia(クイーンズウェア、ウェッジウッド)
1774年新古典主義の流行に敏感に感応したウェッジウッドは1774年「ジャスパーウェア」の誕生を発表、その後4年もの歳月をかけ、何千回もの試作を重ねてようやく完成に至りました。
磁器に近い石器を下地にした新しい素材にブルー、グリーン、ブラック、グレー、ブラウン、ピンク、イエロー、ライラックなど新古典主義にふさわしい色をつけました。
出典:Wikipedia(ジャスパーウェアの試作片、ウェッジウッド)
装飾にはカメオ風のモチーフを使い、古代ギリシャやローマの装飾模様や女神、天使、花や鳥などの図柄が描かれました。ジャスパーウェアは食器だけでなく、新古典主義の館には欠かせない装飾品となりました。
出典:Wikipedia(ジャスパーウェアの壺、ウェッジウッド)
また1799年、スポード窯が良質なボーンチャイナを作り出したと知ると皇太子だったのちのジョージ4世は自ら工房を訪れました。
一目でそれを気に入ったジョージ4世の意向で1806年にはスポードのボーンチャイナは王室御用達の勅許状(ロイヤルワラント)を授けられます。初期のボーンチャイナの絵柄には流行に合った新古典主義の絵柄が多く、女神やぶどう、貝や神話などの古典のモチーフが用いられました。
<参考資料>
「新西洋美術史」(1999)、西村書店