マニエリスムのキーワードは「お手本は巨匠」です。
ルネサンスの三大巨匠を模倣する
15世紀末から16世紀初頭のルネサンス盛期に活躍したレオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロの三大巨匠は、絵画の技術を非常に高いレベルに引き上げました。
そして彼らの作品はその後のヨーロッパ絵画に非常に大きな影響を与えることになります。
ミケランジェロを師と仰いでいたヴァザーリ(Giorgio Vasari)は著書「画家・彫刻家・建築家列伝」(Le Vite delle più eccellenti pittori, scultori, e architettori)でミケランジェロを筆頭に3人の巨匠の「手法(マニエラ maniera)」を芸術的最高のものとし「美しい様式(ベルラ・マニエラ)」と称えました。
出典:Wikipedia(ジョルジョ・ヴァザーリ)
そのような気風から1520年頃になると、自然や古典を手本としていた芸術家たちが、この「マニエラ」を模倣するようになり、1530年頃には「マニエリスム」という奇想や奇抜を好み、芸術的技法を凝らす様式が登場します。
まるで蛇のように妙に引き延ばされ、ねじれた人体や遠近法や短縮法が多用され、誇張された非現実的な空間、奇抜な色使いなどがマニエリスムの特徴です。
出典:Wikipedia( 「ゲッセマネの祈り」ジョルジョ・ヴァザーリ作、1570頃 )
このような不自然な絵画が生まれる背景には、堕落したキリスト教会にメスを入れたルターによる宗教改革や神聖ローマ帝国軍がローマを征服した「ローマ略奪」、1492年にコロンブスがたどり着いた新大陸の発見などによる地中海貿易の衰退といった社会的混乱や精神的不安があったのかもしれません。
「マニエリスム」は古典を追求し、自然を模倣した巨匠たちが最終的にたどり着いた究極の手法、巨匠の「マニエラ(手法)」から学んだ芸術家たちによって発展した新しい芸術の流れでした。
イタリア・マニエリスム
ヴァザーリを筆頭に、多くの芸術家を支援していたメディチ家の周辺からいち早くマニエリスムの画家たちが生まれます。
中心的な人物は、ヴェッキオ橋(Ponte Vecchio)のたもとにあるサンタ・フェリチタ教会(Santa Felicita)にある「十字架降下(Deposizione)」を描いたポントルモ(Pontormo)です。
ミケランジェロなどの巨匠から受けた影響を自分なりに咀嚼し、非常に技巧的ながらどことなく憂鬱さが漂う作品に仕上がっています。
更にもう1人忘れてはならないのは、メディチ家の人々の肖像画も数多く手がけたブロンヅィーノ(Bronzino)です。
この「愛の勝利の寓意」(ロンドン、ナショナル・ギヤラリー所蔵)は、ヴィーナスとキューピッドを中心に、愛をめぐる様々な真実と嘘が入り混じった作品で、謎が多く込められた知的な作品に仕上がっています。
出典:Wikipedia( 「愛の勝利の寓意」アーニョロ・ブロンズィーノ作、1545年 )
ちなみにこの絵は、トスカーナ大公のコジモ1世(メディチ磁器を作成したフランチェスコ1世の父)から、フランス国王フランソワ1世へ贈られたものです。
フィレンツェ以外ではパルマ(Parma)で活躍した「首の長い聖母(Madonna dal collo lungo)に代表される不思議な作品を描いたパルミジャニーノ(Parmigianino)がいます。
出典:Wikipedia(「長い首の聖母」パルミジャニーノ作、1535年)
これらの作品のように一部の教養のある人にしか理解できない、寓話表現が盛り込まれた作品がマニエリスタによって多く作られました。
イタリアからフランス、ヨーロッパ各地へ
フィレンツェ生まれで、元来赤毛だったことからこう呼ばれているロッソ・フィオレンティーノ(Rosso Fiorentino)はフランスにイタリア・マニエリスムを伝える重要な役割を担った画家です。
余談ですが、フィレンツェの街中を歩いているとよく見かける天使の絵、あれは彼の作品の一部をフォーカスしたものです。
出典: https://www.uffizi.it/en (「Angel playing the lute」 ロッソ・フィオレンティーノ作、1521年)
彼は最初ポントルモと同じ工房で働いていましたが、のちにフランソワ1世に招かれてフランスに赴き、フォンテーヌブロー城の広間の壁に、フレスコ画でフランソワの生涯を描きました。
出典: http://festivaldelhistoiredelart.com (パリ、フォーンテーヌブロー城、 フランソワ1世の回廊 )
この時洗練された宮廷美術を手掛けた画家たちをもとに「フォンテーヌブロー派」が生ます。
フォンテーヌブローにはフランドルからも画家や彫刻家が招かれたため、イタリア・マニエリスムと北方、そして地元フランスがミックスされた芸術がここで生まれました。
特にイタリアでは宗教画に対する規制が非常に厳しかったこの時期、フランスでは異教的絵画やエロチックな題材も問題なく制作されていました。
作者不明の「ガブリエル・デストレとその妹」のような描いた本人にしか解読できない、不思議な絵画もフォンテーヌブロー派から生まれています。
出典:Wikipedia(「 ガブリエル・デストレとその妹 」作者不明、1594年頃)
マニエリスムはトスカーナ大公やフランス王家などの有力なパトロンを得て発展してゆきました。
また、ヴェネツィアでティツィアーノやミケランジェロの影響を強く受けたティントレット(Tintoretto)に影響され、スペインに渡ったエル・グレコ(El Greco)も「オルガス伯の埋葬」のように、引き伸ばされた人体を描いています。
出典:Wikipedia(エル・グレコの最高傑作と言われる「オルガス伯の埋葬」)
エル・グレコも後期マニエリスムの代表的な画家として名を連ねています。
自然から人工へ
マニエリスムの影響は当然陶器にも現れます。16世紀イタリアではマヨリカ陶器の人気が最盛期を迎え、グロテスク模様や寓意をテーマにした絵柄のものが多く作られました。
グロテスクとは人物,動物,花,果物などを含むアラベスク文様の1つで、古代ローマで好んで用いられていました。
15世紀末、ネロ帝の黄金宮殿(Domusaurea)が発掘され、そのグロッタ(洞窟)に人物や動物の足が植物と化した唐草文や,怪鳥が飛びかうなかに草花を散りばめた奇抜な模様が発見され、この種の「奇妙な」「異様な」文様は「グロッタの文様」の意味でグロテスキ(grotteschi)と呼ばれ、グロテスクはその英語・フランス語読みです。
出典:Wikipedia(ドムス・アウレアのグロテスク装飾)
バチカン宮殿のロッジアの装飾にラファエロは早々とこの文様を使ったことなどからも分かるように、当時の建築や工芸品の装飾として流行し,以後ヨーロッパの伝統的文様の1つになりました。
このグロテスクやマニエリスムの影響を独自に発展させたのが、フランス陶工のベルナール・パリシー(Bernard Palissy)です。パリシーが1550年頃製作した“大皿”は、爬虫類や昆虫の生々しさが衝撃的です。
出典:Victoria and Albert Museum(「田舎風陶法による大皿」ベルナール・パリシー作)
パリシーはそれまでフランスの陶器を彩っていた緑や黄、褐色の釉薬とは異なり、自然の動物や植物の色を再現することが出来ました。そしてこのような器を「リスティック・フィギリン」(田舎風器物)と呼んでいました。
パリシーの田舎風器物の人気は、フランスはもちろんのこと、イギリスやスペインでも模索や贋作が作られるようになりました。フランスの国立セーヴル陶磁博物館の正面には今も、田舎風の鉢を抱えたパリシーが立っています。
自然を忠実に再現しながら、人工的なものへと向かっていくこの奇妙な傾向は、16世紀を通じてニュルンベルクで活躍したヤムニッツァー(Wenzel Jamnitzer)にも見られます。
出典: https://en.wahooart.com (「インクスタンド」 ヴェンツェル・ヤムニッツァー作、1560年)
昆虫や爬虫類、貝を写実的に表現した鋳造による小像で知られ、その奇抜な意匠と素材使いの大胆さで、ドイツにおけるマニエリスムからバロックへの移行期の巨匠の一人に数えられています。
参考資料
鑑賞のための西洋美術史入門、視覚デザイン研究所
新日本美術史、西村書店