マルケ州に花開いたルネサンス
日本人にはまだまだ馴染みの薄いマルケ州(Marche)。
夏には海水浴客で賑わうペーサロ(Pesaro)の街はオペラの作曲家ロッシーニ(Gioachino Antonio Rossini)の生誕地でもあり、毎年8月には「ペーザロ・ロッシーニ音楽祭(Rossini Opera Festival Pesaro)」が開かれることでも有名です。
ここから車で1時間ほどの山間にウルビーノ(Urbino)の街があります。
世界遺産にも指定されているウルビーノの街は、アペニン山脈北部の山岳地帯に位置しています。
出典:depositphotos.com(ウルビーノ)
この街が劇的に繁栄したのは、1400年代に登場した一人の君主のお陰でした。
フィレンツェのウフィツィ美術館にあるこの肖像画をご覧になったことが有る方も多いと思いますが、この人がウルビーノの街を一流の文化的な街へと大きく変えたフェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ(Federico da Montefeltro)その人です。
出典:Wikipedia(フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ)
フェデリーコは1444年にウルビーノ伯を継ぎました。
彼は小国だったウルビーノから離れ、軍人として教皇領、ミラノ、ヴェネツィア、フィレンツェなどの傭兵隊長として活躍、負け知らずの名将として名を馳せていただけでなく、領地に戻れば民にも非常に人気のある優れた領主でした。
そして文武両道に秀でた彼の宮廷には様々な文化人が集っていました。
また芸術家たちのパトロンとしても有名で、各地から建築家、画家、彫刻家などを招集し、ルネサンス建築の傑作と言われるドゥカーレ宮殿(Palazzo Ducale)を築き上げました。
出典:depositphotos.com(ウルビーノのドゥカーレ宮殿)
宮殿内はピエロ・デッラ・フランチェスカ(Piero della Francesca)などの数々の有名な芸術家の作品で飾られました。冒頭のフェデリーコ・ダ・モンテフェルトロの肖像画も彼の作品です。
出典:Wikipedia(「キリストの洗礼」ピエロ・デッラ・フランチェスカ作)
現在ドゥカーレ宮殿は美術館になっていますが、残念ながら当時の作品はここには残っていません。
ちなみに、ドゥカーレ宮殿とは、イタリア語で「xx公の宮殿」くらいの意味でイタリア各地に同じ名前の宮殿があります。
ラファエロの生誕地
ウルビーノの有名人はフェデリーコ・ダ・モンテフェルトロだけではありません。
フェデリーコの宮廷にジョヴァンニ・サンティ(Giovanni Santi)という宮廷画家がいました。
この人がルネサンスの偉大な画家ラファエロ(Raffaello Sanzio)の父であり、ラファエロの最初の師匠でした。ウルビーノはラファエロの出身地としても有名なのです。
出典:Wikipedia(ジョヴァンニ・サンティ)
しかしラファエロが生まれ故郷のウルビーノにいた期間はそれほど長くはありません。ラファエロは幼くして母も父も亡くしてしまいます。
そんな幼いラファエロはその後、既にバチカンのシスティーナ礼拝堂の壁画装飾などで名を馳せていたピエトロ・ヴァンヌッチ(Pietro di Cristoforo Vannucci)、通称ペルジーノ(Perugino)に弟子入りし、フィレンツェに進出、あっという間にその才能を認められることになるのです。
出典:Wikipedia(ラファエロの自画像)
ウルビーノにはラファエロの生家が今でも残されています。そこには幼いころに亡くした母を思って描いたと言われる、「聖母子像」が今も残されています。
出典:Accademia Raffaello(ラファエロの生家)
出典:Wikipedia(ラファエロが描いたと言われる「聖母子像」)
「マヨリカのラファエロ」と呼ばれた陶芸家
ルネサンス期、フィレンツェやローマにも劣らない素晴らし芸術が花開いていたウルビーノでは陶器の製作も非常に盛んで、各地から優れたイストリアート(説話画)の陶芸家が集まり、腕を競っていました。
その中でも特に優れた才能を発揮していたのは、ニッコロ・ペッリパリオ(Niccolò Pellipario)通称二コラ・ダ・ウルビーノ(Nicola da Urbino)です。
神話を主題としたイストリアートの作品を得意とした二コラは生き生きと人物を描き、巧みな画面構成で背景には広大なウンブリアの風景を描きながら、建物などの細部にこだわり、この時代のマヨリカ焼きの装飾では他の追随を許さない完成度の高い作品を作り出しました。
出典:Wikipedia(煉獄のダンテとウェルギリウスの皿)
二コラは作風や芸術レベルの高さから同郷のラファエロとよく比較され、「マヨリカのラファエロ」とも呼ばれています。
濃い緑や青の寒色系の色彩を多用した独特の彩色は、当時の油彩画やフレスコ画を髣髴とさせます。
また1528年には現在フィレンツェのバルジェッロ美術館(Museo Nazionale del Bargello)に保管されている「聖チェチリアの殉教(Martirio di Santa Cecilia)」に初めて黄色を使いました。その後この黄色い色合いがウルビーノの陶器の特徴となります。
出典:Stilearte.it(聖チェチリアの殉教)
「グロテスク」の語源となったラファエレスク装飾
15世紀、ローマ皇帝ネロが作った宮殿の一部が発見されました。
これは104年頃から急速に姿を消した「ドムス・アウレア(Domus Aurea)」と呼ばれる黄金宮殿の一部で、1490年代若い芸術家たちは好んでここを訪れていました。
なぜならその「グロッタ(Grotta、洞窟)」と呼ばれた遺構には一風変わった装飾が描かれていたからです。
出典:Wikipedia(ドムス・アウレアのグロテスク装飾)
ラファエロは、その“洞窟“に描かれていた装飾をヒントに「グロテスク」という様式を生み出しました。
人や植物などが本来の姿ではなく、奇妙な形に描かれたグロテスクな装飾を用いてラファエロはヴァチカン宮殿の回廊を埋めました。
グロテスク装飾を復活させたラファエロにちなんで、このような奇抜な装飾はラファエロ風のという意味で「ラファエレスコ」とも呼ばれています。
出典:depositphotos.com(ヴァチカン美術館、ラファエロの間の天井装飾)
イストリアートの流行にやや遅れるように、ウルビーノではこのグロテスク装飾を使った陶器の製作が盛んになります。
特にフォンターナ(Fontana)工房やパタナッツィ(Patanazzi)工房といった、伝統的な工房がこの意匠を使って膨大な数の豪華なテーブルウェアや装飾品を生産しました。
ウルビーノの陶器の評判は高く、イタリアだけでなく各地の宮廷貴族からも注文があったそうです。
出典:メトロポリタン美術館(パタナッツィ工房のマヨリカ焼き)
参考資料
すぐわかるヨーロッパ陶磁の見かた、東京書籍