ビザンツ帝国(東ローマ帝国)の美術様式モザイク画で有名な古都ラヴェンナ(Ravenna)に近いファエンツァ(Faenza)は、イタリアのエミリア・ロマーニャ州(Emilia-Romagna)にある人口6万たらずの小都市です。
この小さな街を世界的に有名にしているのは、陶器。
特にマヨリカ焼きをヨーロッパ中に広めたのはファエンツァの窯、陶工たちだったのです。
中部イタリア、ウンブリア州(Umbria)の州都ペルージャ(Perugia)から車で1時間も走ると、山の斜面に作られたグッピオ(Gubbio)の街が見えて来ます。
イタリア人がこの街をよく知っているのはその歴史の深さゆえ、というだけではありません。
実はグッピオはイタリア国営放送(Rai)で2000年から12シーズンにも渡って放映されている人気ドラマのロケ地として長い間、使われていて、イタリア人にとっては非常に見慣れた街なのです。
州都ラクイラ(L’Aquila)から車で、1時間ほど「イタリアの最も美しい村(I Borghi piu belli d’Italia)」の1つにも選ばれているカステッリ(Castelli)に到着です。
カステッリとは「城」という意味で、街は標高500メートルの高さに位置しています。
街の見どころはなんと言ってもサン・ドナート教会(San Donato)です。
この教会の天井は1615年から2年間かけて街の全ての陶芸職人が参加して制作されたマヨルカ焼きのタイルで覆われています。
「緑の心臓」と言われるイタリア中部ウンブリア州にあるオルヴィエート(Orvieto)の街は、小高い丘の上にあり、「世界一美しい丘の上の街」と言われています。
群馬県の前橋市と姉妹都市でもあるオルヴィエートへは、首都ローマから列車で一時間。電車を降りたら、旧市街へはイタリア語でフニコラーレ(funicolare)と呼ばれるケーブルカーで向かいます。
ちなみに音楽の教科書にも登場する、ナポリ民謡で有名な「フニクリ・フニクラ」はケーブルカーの愛称なのです。
ヴェネツィア共和国は当時最も進んだ技術を持っていたシリアのアンティオキアと協定を結びます。
原料や燃料だけでなくガラス職人までもヴェネツィアに輸入し、ローマ帝国やイスラム世界で発展した伝統的なガラス技術を取り入れ、応用することで独自のガラス製作技術を手に入れました。
そして、自分たちのガラス製作の技術が外に漏れるのを防ぐことと、ガラス製作には火を使うため、狭い島内で火事が起こることを恐れたヴェネツィア共和国は、1291年、全てのヴェネツィア本島に有ったガラス工房を、ムラーノ島(Murano)へ強制移住させます。
アルビッソラ・マリーナの陶工たちは、スペインやフランス、パルマ王国などへ移って行き、その技術を伝えました。
1569年には13の工房が有りましたが、1640年にはその数が23になり、マヨリカ製作の黄金期を迎え、陶芸は17世紀から18世紀におけるリグーリア地方の最も重要な産業になりました。
装飾のモチーフには花や動物、船や帆船が描かれた海の風景が好んで選ばれたほか、伝統的な神話や聖書のエピソードなどが描かれています。
「ナポリを見てから死ね (Vedi Napoli e poi muori)」」と言われるほど、一生に一度は訪れたい風光明媚な南イタリアの中心都市ナポリ(Napoli)。
最大の見どころは、1世紀にヴェスビオ火山の噴火により、その火砕流により2000年前の生活をそのままに、地下に埋没したポンペイやヘルクラネウム(現エルコラーノ)遺跡の出土品です。
この影響を大きくうけたのが、イギリス・ウェッジウッド社の創業者であるジョサイア・ウェッジウッド。それまで東洋陶磁器の模倣をもとに発展してきたヨーロッパ陶磁器の世界に、欧州文明の起源であるギリシア・ローマ文化の要素を取り込むことで新たな流行を産み出します。
デルタでは既に1280年代にマヨリカ焼きを作成していた記録が残っており、そして産出された陶器は、地元の人たちが使うだけでなく、ペルージャやアッシジ(Assisi)にも運ばれていたとのことから、かなりの量が製造されていたことが伺われます。
当初のデルタ製陶器は、植物や幾何学模様が描かれた極めてシンプルなデザインのものでしたが、15世紀初め、それまで作られていたテラコッタと呼ばれる素焼きの焼き物の製作を止め、マヨリカ焼きの製法での陶器作りを専門的に行うようになります。
先史時代から陶器作りが盛んだったカルタジローネに、中世になるとマヨルカ島の商人によってイスパノ・モレスク陶器(「イスパニア・ムーア人の陶器」の意味でこの地域の錫釉陶器の総称)が輸入され、その技法もムーア人(アフリカ北西部に住むイスラム教徒)の陶工たちによってもたらされました。
その後、マヨルカ島からやって来たその陶器は、錫釉を塗ることで陶器表面が不透明で真っ白になり、その上に絵付けをすると非常に鮮やかに色が映えることから、瞬く間にイタリア各地へ広まってゆき、もっぱら16世紀までにイタリアで作られた錫釉陶器は「マヨリカ焼き」と呼ばれるようになりました。