ルネサンスを知るためのキーワードは「世界の中心は神ではなく人間」です。
ルネサンスの幕を開いた彫刻家対決
時は15世紀も開けたばかりの1401年。
イタリア、フィレンツェではこの年サン・ジョヴァンニ洗礼堂 (Battistero di San Giovanni)の北の門を飾る彫刻を手掛けるアーティストを選ぶコンクールが開催されました。
出典:Wikipedia(サン・ジョヴァンニ礼拝堂)
最終選考に残ったのは、ギベルティ(Ghiberti)とブルネレスキ(Brunelleschi)。その勝負を制したのはギベルティでした。もっとも、2人とも優勝だったがブルネレスキが辞退したという説もありますが。
出典:Wikipedia(ギベルティ、 サン・ジョヴァンニ洗礼堂『天国への門』にある肖像 )
出典:Wikipedia(ブルネレスキ)
この勝利に伴い、ギベルティはミケランジェロ(Michelangelo)に「天国への門(Porta del Paradiso)」と呼ばれた東側の扉も手掛けることになります。
出典:Wikipedia(サン・ジョヴァンニ礼拝堂「天国への門」)
1966年の大洪水で大きな打撃を被った「天国への門」のオリジナルは修復され、現在はドゥオーモ博物館(Museo dell'Opera del Duomo)に所蔵されています。
実は、現在、洗礼堂にはめられているレプリカの「天国への門」の製作費用を出したのが、茂登山長市郎さんという日本人だったことは地元の人以外にはあまり知られていませんが、一年中門の前は世界中からやって来る観光客であふれています。
なぜこのコンクールが「ルネサンスの幕開け」と言われるのかというと、勝利をしたギベルティの作品はゴシック様式を色濃く残すものだったのに対して、ブルネレスキの作品は非常にドラマチックで斬新で、これから始まるルネサンスの夜明けを感じさせる見事な作品でした。
ただ、この時ほとんどの人がこの斬新さを理解することができず、それまで慣れ親しんだ伝統的なゴシック様式で彫られたギベルティの作品が選ばれることになったのでした。
勝負に敗れたブルネレスキはその後彫刻を捨て、建築の道へ。ただこの‘’負け‘’がなかったら、フィレンツェのシンボル、サンタ・マリーア・デル・フィオーレ大聖堂の丸天井を今のような形に作りあげることは誰にもできなかったのでした。
出典:depositphotos.com(サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂)
古典文化の復興運動
長い間、世界の中心はキリスト教、神でした。ところが15世紀に入るとギリシャ・ローマ時代を理想とする、人間を中心とした古典文化再生の機運が高まります。
その要因にはゴシック時代、都市文化が発展したことによって、自由な文化創造が盛んになったことや、1453年にオスマン・トルコがビザンティン帝国を征服したことで、東ローマの伝統を継承したコスタンティノープル(現イスタンブール)の古典文化がイタリアに入ってきたことなどが考えられます。
古典文化再生の動きが真っ先に起こったのは、フィレンツェでした。毛織物で栄えたフィレンツェは13世紀より共和制を取っていましたが、15世紀には金融業で成功したメディチ家(Medici)に実質上は支配されていました。
コジモ・デ・メディチ(Cosimo de' Medici)はプラトン・アカデミー(Accademica Platonica)を開催、そこには人文主義者と呼ばれる、ギリシア・ローマの古典文芸や聖書原典の研究を元に、神や人間の本質を考察した知識人やメディチ家が積極的に支援をした芸術家が集まっていました。
出典:Wikipedia(コジモ・ディ・メディチ)
ルネサンスとは「再生」を意味し、イタリアで興ったのち、西ヨーロッパ各国へと広がって行きました。
古典美を手本により素晴らしい芸術を開花
ルネサンスの目的は、古典をただ模倣するのではなく、古典よりも優れたものを作り出すこと、人間の肉体や人生の喜びを賛美する古代ギリシア・ローマの芸術に、写実的な要素を加え、それまでの神中心の禁欲的な世界観をぶち破り、自然の美や現実世界の価値を再確認することでした。
初期ルネサンスは、商業都市として頭角を現してきたフィレンツェから始まります。
建築ではブルネレスキ、彫刻は彼の友人だったドナテッロ(Donatello)、絵画ではマザッチオ(Masaccio)などを筆頭に多くの特出した芸術家が活躍しました。
こうした新しい芸術の波は15世紀半ばになるとイタリア各地の宮廷都市へと広がって行き、ピエロ・デッラ・フランチェスカ(Piero della Francesca)やアンドレア・マンテーニャ(Andrea Mantegna)といった芸術家が活躍しました。
出典:Wikipedia(「ウルビーノ公夫妻の肖像」、ピエロ・デッラ・フランチェスカ作、1472-74年頃)
出典:Wikipedia(「死せるキリスト」アンドレア・マンテーニャ作、1490年代)
15世紀後半、事実上の君主として富と権力を握ったロレンツォ・デ・メディチ(Lorenzo de' Medici)は古代の彫刻や芸術品を集め宮殿や庭園に飾ったり、新プラトン主義の下に集まった人文主義者や芸術家によるサークルを開催したりしました。
出典:Wikipedia(ロレンツォ・ディ・メディチ)
このサークルに参加していた画家の中に「春(Primavera)」や「ヴィーナスの誕生(Nascita di Venere)」を描いたボッティチェリ(Botticelli)もいました。
出典:Wikipedia(「プリマヴェーラ」、サンドロ・ボッティチェッリ、1482頃 )
出典:Wikipedia(「ヴィーナスの誕生」、サンドロ・ボッティチェリ、1483年頃)
優しさあふれた人間味のある聖母
ルネサンス期になると、人間味あふれた優しく微笑むマリアが、ふっくらとした赤ん坊のキリストを抱く聖母子像が数多く制作されるようになりました。
それまでは神を人間のように表現することは禁止されていましたが、ルネサンス期になって、世界の中心は神ではなく人間であるという考えが普及すると、神への表現も変わってきました。中でも慈愛に満ちた聖母は万人に親しみやすく、人気でした。
ルカ・デッラ・ロッビア(Luca della Robbia)は色を付けた陶器製の聖母子を製作し、人気の彫刻家の一人となりました。
出典: https://www.artsy.net/ (「聖母子像」ルカ・デッラ・ロッビア、1475年)
陶器製作の技術はルネサンス期には非常にレベルの高いものとなり、宮殿の壁や床はイストリアート(説話画)と呼ばれる色鮮やかなマヨリカ陶器のタイルで装飾されるようになりました。
3大巨匠の登場
15世紀末から16世紀初頭にかけて、ルネサンスは3大巨匠の登場により最盛期を迎えます。彼らの作品は初期ルネサンスの規範とされていた古代と自然さえも凌駕し、独自のかつてない素晴らしい作品を生み出しました。
レオナルド・ダ・ヴィンチ
最初に登場するのは「世界で一番有名な絵画」と言っても過言ではない「モナ・リザ」を描いたレオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci)です。
出典:Wikipedia(レオナルド・ダ・ヴィンチ、自画像、 1513- 1515年頃 )
「万能の人」と呼ばれたダ・ヴィンチは絵画だけだなく音楽、建築、工学など様々な分野にその才能を発揮していました。
絵画では“スフマート“と呼ばれる「空気遠近法」によって背景をぼかすことで奥行きを表現を考え出しました。2007年に東京にやってきたので、ご覧になった方も多いかと思いますが、「受胎告知(Annunciazione)」にも初期のスフマート技法が見られます。
出典:Wikipedia( 「受胎告知」、レオナルド・ダ・ヴィンチ、1475 -1485年 )
ミケランジェロ・ブオナローティ
次に登場するのはミケランジェロ・ブオナローティ(Michelangelo Buonarroti)です。
出典:Wikipedia(ミケランジェロ・ブオナローティ)
ミケランジェロもまた詩や建築などにも秀でた「万能の人」でした。ロレンツォ・デ・メディチが集めた古代の彫刻を熱心にデッサンしていたのをロレンツォ本人に見いだされ、人文学サークルに招待されたりと若いころから頭角を現していました。
フィレンツェのシンボル「ダヴィデ像(David)」(アカデミア美術館所蔵)は彼が20代で制作したもので、同じ20代に制作した「ピエタ(Pietà)」(バチカン大聖堂所蔵)と並ぶ代表作というだけでなく、ルネサンス期を通してもっっと優れた彫刻作品と言うことができます。
出典:Wikipedia( 「ダヴィデ像」、1504年 )
出典:Wikipedia( 「ピエタ」、1498 - 1500年 )
また「自分は彫刻家だから絵は描かない」と何度も固辞していたにも関わらず、教皇の強い要請で描かされたのが世界一有名な天井画です。
ミケランジェロにその任務を与えたのは、教皇ユリウス2世(Giulio II)は芸術を愛好し、多くの芸術家のパトロンとなり、ローマにルネサンスの最盛期をもたらします。
システィーナ礼拝堂(Cappella Sistina)の天井は「天地創造」から始まる、旧約聖書の初めの部分「創世記」を中心に描かれています。中でも一番有名なのは神が最初の人間アダムに命を吹き込むシーンではないでしょうか。
出典:Wikipedia( システィーナ礼拝堂天井画 「アダムの創造」)
まるで古代彫刻のような完璧な肉体が描かれています。
アダムと神の指先が触れる様子にヒントを得て映画「E.T.」に使われたというエピソードも残っているくらい、現代にも影響を及ぼした作品です。
出典:amazon.co.jp(映画「E.T」)
ラファエロ・サンティ
そしてこの2人よりも若く、最後に登場するのがラファエロ・サンティ(Raffaello Santi)です。彼は2人の巨匠の良い部分を吸収し、独自のスタイルを作り上げていきます。
出典:Wikipedia(ラファエロの自画像)
ラファエロはヴァチカン宮殿内に「アテナイの学堂」などを描きます。均整のとれた構成や力強い肉体の表現はまさに2人の巨匠から学び取ったもので、ラファエロによって盛期ルネサンスの円熟した様式に達しました。
出典:Wikipedia(「アテナイの学堂」、1509-1510年頃)
また「聖母の画家」と呼ばれたラファエロは多くの聖母像を残しています。ラファエロが描く優美で慈愛に満ちた女性像は西洋絵画の美の手本として後世多くの芸術家に影響を与えることになるのです。
デッサンより色彩のヴェネツィア派
16世紀海洋都市として繁栄していたヴェネツィアでは、独自の文化が花開いていました。東洋との貿易により、イスラムから伝わったと思われるガラス工芸はルネサンス期ローマに次ぐ繁栄を見せ、黄金時代を迎えていました。
ムラーノ製のバロピエールの大杯(Coppa barovier)は半透明の澄んだ青のガラスの杯に繊細なエナメル彩を施したこの時期の代表的な作品です。
出典:VENETOINSIDE.com(バロピエールの大杯)
絵画ではデッサンを大事にするフィレンツェとは異なり、デッサンをせず直接色を入れていくという感覚的な絵が描かれるようになります。
それまでイタリアにはなかった油彩が北方からもたらされたことによりヴェネツィア派も油彩画もヴェネツィアから大きく発展することになります。
ヴェネツィア派で最も重要な画家の1人はなんといってもティツィアーノ・ヴェチェッリオ(Tiziano Vecellio)でしょう。
出典:Wikipedia(ティツィアーノ・ヴェチェッリオ)
90歳と当時ではかなり長命だったティツィアーノは、生前に100点近い美しい絵画を描きましたが、死去するとき「やっと最近絵の描き方がわかってきた」と言ったといわれています。
こちらも2008年に東京に来ていたので、ご存知の方も多いかと思います。
ウフィツィ美術館所蔵の「ウルビーノのヴィーナス(Venere di Urbino)」は、ティツィアーノがローマで古代彫刻を見た後に描かれた作品で、ギリシャ神話に登場する女神が裸でベッドに横たわっています。
出典:Wikiepdia(「ウルビーノのヴィーナス」、1538年頃)
ヌード姿は神か神話の人物しか描くことを許されていなかったこの時代に、これほど官能的で血の通った女性の姿を描き出しことは物議を醸しだし、後世にも大きな影響を与えました。
参考資料
鑑賞のための西洋美術史入門、視覚デザイン研究所