首都マドリードから東へAVE(新幹線)で2時間弱、スペイン第二の都市バルセロナからは南へ特急で3時間ほど旅すると、バレンシア州の州都であり、スペイン第三の人口(80万人)を誇る港湾都市バレンシア(Valencia)へ到着です。
自らの文化、価値観、言語を大切にしてきた独立心が旺盛なカタルーニャ地方(中心都市はバルセロナ)に言語面では大きな影響をうけつつも、バレンシアに住む人は、自分たちは「バレンシア人」と強い地域アイデンティティを持ち、独自の文化を発展させてきました。
「母をたずねて三千里」というアニメを覚えていますか?
少年マルコが母を探して船旅に出た港、あれはイタリア、リグーリア州の首都ジェノバ(Genova)だったのですが、そのジェノバから電車でおよそ1時間、港町サヴォーナ(Savona)に到着です。
「1枚あるだけでおしゃれに決まる、存在感のある食器がほしい」―そうお思いの方もいらっしゃるかもしれませんね。
決して、安い買い物ではないから、どんな料理にも合わせやすくて、洗練されたテーブルにしてくれる食器を選びたいですよね。
そんな方には、フランスの「レイノー(Raynaud)」という食器ブランドをお勧めします!
世界の高級ホテルや星つきレストランでも使用されている洋食器ブランドなのですよ。また、世界の注目を集める有名シェフとコラボした食器シリーズも人気。今回は、この窯の歴史や人気コレクションを紹介します。
マニエリスムのキーワードは「お手本は巨匠」です。
ミケランジェロを師と仰いでいたヴァザーリ(Giorgio Vasari)は著書「画家・彫刻家・建築家列伝」(Le Vite delle più eccellenti pittori, scultori, e architettori)でミケランジェロを筆頭に3人の巨匠の「手法(マニエラ maniera)」を芸術的最高のものとし「美しい様式(ベルラ・マニエラ)」と称えました。
ルネサンスを知るためのキーワードは「世界の中心は神ではなく人間」です。
時は15世紀も開けたばかりの1401年。
イタリア、フィレンツェではこの年サン・ジョヴァンニ洗礼堂 (Battistero di San Giovanni)の北の門を飾る彫刻を手掛けるアーティストを選ぶコンクールが開催されました。
ムルシアの歴史は大変古く、580年ごろには、イベリア半島の北東からこの辺りまでギリシャ人がやってきて、陶器産業を作る元となったとされています。
825年には現在の場所にムルシアという名前の都市ができており、後ウマイヤ朝のアブド・アッラフマーン2世以降は、しばらくイスラム王朝の統治下の時代が続き、この間に、陶工たちがやってきたそうです。
1811年に、サン・クリク・カゾー(Charles Gaspard Alexandre Saint-Cricq Casaux)がクレイユ窯の経営者となり、1819年にモントロー窯を買収。
その後、工場経営を引き継いだルイ・マーティン・レベフ(Louis-Martin Lebeuf、1792-1854) とジャン・バプティスト・グラシアン・ミレー(Jean Baptiste Gratien Milliet、1797-1875)のもと 1840年には合併します。
ともにライバルとしてそれほど遠くない場所で陶器工場を営んでいたクレイユとモントローが共同で陶器を作ることとなりました。この名前は1840年から1874年まで“Lebeuf Milliet et Cie ”のマークで残ることとなります。
ザクセン選帝侯としてのフリードリヒ・アウグスト1世(Friedrich August I)と、ポーランド・リトアニア共和国の王としてのアウグスト2世(August II Mocny)という2つの顔をもち、"強健王"や"ザクセンのヘラクレス"などとも呼ばれるほど驚異的な怪力の持ち主としても有名なアウグスト強王(1670-1733)。
その異名を証明するため?!しばしば蹄鉄をへし折って見せ、自慢していた!という驚きの逸話も残る彼は、1670年にザクセン選帝侯領の首都ドレスデンに生まれます。
「メディチ家」と聞くと、何を最初に連想しますか?
成金? 金融? 借金取り? 毒薬? 殺人?
どれもあまり好印象とは言えないものが多いかも知れません。
メディチ家は、ルネッサンス期を代表する一族で、銀行家、政治家として当時のフィレンツェを牛耳っていました。
フランチェスコ1世・デ・メディチ(Francesco I de' Medici、1541-1587)は、このメディチ家の出身で、1584年に、日本の九州の大名がローマ教皇に向けて使節として派遣した4人の日本人少年(天正遣欧少年使節)に、イタリアでの謁見を果たした人物でもあります。
セビリアの街は大西洋へとつながるグアダルキビール川の恩恵を受け、海洋貿易の拠点として長らく繁栄を誇っていました。
1492年に新大陸(アメリカ)を発見したコロンブスはここセビリアから出帆。セビリアが果たした重要な役割は今も語り継がれています。
711年から1248年まで、アル・アンダルス(現在のアンダルシア地方)の他の町々と同様イスラムの支配下におかれ、その影響を強く受けたセビリアの街には現在もイスラム文化が色濃く残されており、例えば、現存するヒラルダの塔は当時モスクの鐘楼だったものです。
しかしセビリアの街を彩るのは、イスラム文化だけではありません。
1401年にルネサンスの幕開けともいわれる、洗礼堂の門の彫刻制作のためのコンクールがフィレンツェで開かれます。
当時フィレンツェにはこのコンクールの勝者となったギベルティーをはじめ、ライバルでのちに大聖堂の丸天井の設計に携わるブルネレスキ、ブルネレスキの友人のドナテッロなど錚々たる彫刻家たちが活躍していました。
そのドナテッロと競作することとなった、フィレンツェの大聖堂のための大理石の聖歌台を作ったのがルカ・デッラ・ロッビア(Luca della Robbia、1400-1481)でした。