創始者であるアウグスト強王によってその歴史が始まって以来、今なお300年以上に渡り愛され続ける、ドイツが誇る老舗磁器ブランドのマイセン。
その始まりから初期の頃、多大な功績を残し、その発展に大貢献した人物として有名なのが「3人のヨハン」と称されることも多い3人の天才たちでした。
マイセン磁器の誕生に直接関わったヨハン・フリードリヒ・ベトガー、その後、マイセン磁器における色彩の技術を向上させ、これを確立させたヨハン・グレゴリウス・ヘロルト、そして最後に登場するのが、マイセン磁器における造型の分野を著しく発展させ、これを確立したヨハン・ヨアヒム・ケンドラー(Johann Joachim Kaendler、1706~1775)です。
錬金術師のヨハン・フリードリヒ・ベトガーが当時まだ謎に包まれていた白磁器の製法を解き明かし、ヨーロッパで初めてその焼成に成功したことから、今なおドイツが誇る名窯マイセンの歴史が始まりました。
そのベトガーは37才という若さで死去。ベトガーを失ったちょうどその頃、マイセンも低迷期を迎えることとなってしまいます。
そんなマイセンにベトガーの死の翌年、彼と入れ替わるかのように登場するのが、伝説的な天才絵付け師として知られるヨハン・グレゴリウス・ヘロルト(Johann Gregorius Höroldt、1696~1775)です。
艶やかに輝く純白が特徴のこうした硬質磁器は、当時のヨーロッパで作ることができなかったこともあり、金や宝石にも匹敵する宝物とされていたことから「白い金」と呼ばれたほど!
18世紀初頭、アウグスト強王はこうした磁器をただ買い集めるだけでは飽き足らず、その謎に包まれた製法を解き明かし、自国で製造したいという野望を抱くように。
そんな彼の耳にある人物のうわさが飛び込んできます。 そのうわさの人物こそが"金を作ることができる"錬金術師を自称していたヨハン・フリードリヒ・ベトガー(Johann Friedrich Böttger、1682-1719)です。
フランス国王ルイ15世と妃マリー・レクザンスカの長男であるルイ・フェルディナン(Louis Ferdinand de France、1729-1765)は、生まれながらのドーファン(Dauphin、王太子)として誕生しました。
有名な愛人だけでもポンパドゥール夫人にデュ・バリー夫人などなど、数多くの愛人を持ったことで知られる奔放な父王ルイ15世とはタイプの違う人物であったというルイ・フェルディナンは、ローマ教皇とイエズス会の保護を行っていたというほど敬虔なカトリックで厳格な人物だったのだそう!(顔はそっくりですが、性格は真逆な親子だったんですね)
ドイツ・バイエルン選帝侯マクシミアリアン3世ヨーゼフは、バイエルン選帝侯から神聖ローマ皇帝となったカール7世と、妃マリア・アマーリエの間に、ミュンヘンで生まれます。
一方、彼の妻となるマリア・アンナ・ゾフィアは、ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト2世(ポーランド王アウグスト3世)と、妃マリア・ヨーゼファの間に、ドレスデンで生まれます。
この頃のドイツは、大小の諸侯が乱立する領邦国家。その中でも特に力をもっていたのは、神聖ローマ帝国の皇帝に関する選挙権をもち「選帝侯」と呼ばれた7諸侯ですから、有力諸侯同士の政略結婚ですね。
そして、双方の母親同士は姉妹!ですから、マクシミリアン3世は一つ年下の従妹を花嫁に迎えることとなるわけです。
ナポリ・シチリアの王として即位し、後に王位を息子に譲ってスペイン王となるカルロス3世(1716-1788)は、スペイン王フェリペ5世と、彼の2番目の妃でイタリア北部のパルマ公女エリザベッタ・ファルネーゼとの間に生まれます。
父フェリペ5世には既に世継ぎとして先妻の子フェルナンド6世がいたため、カルロス3世は、母エリザベッタがイタリア北部のパルマ公国出身であったこともり、王子時代にはパルマ公を務めていました。
膨大な磁器コレクションを集め、マイセンを創設するなど、"強健王"として有名なアウグスト2世と、彼の妃クリスティアーネの間に唯一の子どもとして誕生したアウグスト3世(August III Sas、1696-1763)。
政治の世界での鬱憤を晴らすかのように、アウグスト3世は、芸術を愛し、ザクセンの都ドレスデンにヨーロッパ屈指のコレクションを築き上げ、ドレスデンを芸術の都として今日の発展の礎を築き上げます。
マリー・アントワネット(Marie-Antoinette、1755-1793)は、オーストリア皇帝のフランツ1世とその妻マリア・テレジアとの間に、第15子としてウィーンに誕生します。
オーストリアとフランスは、数百年間にわたって、ヨーロッパ大陸での覇権を争う宿敵関係でしたので、一旦は同盟関係を結べたものの、いつ瓦解してもおかしくない状態のため、早いうちに一層の関係強化を図る必要がありました。
そこで白羽の矢がたったのが、オーストリア側は14歳のマリー・アントワネット、フランス側は15歳の王太子(後のルイ16世)です。幼いマリー・アントワネットは、両家融和の象徴として、フランスに輿入れすることになります。
ジャンヌ・アントワネット・ポワソン(Jeanne-Antoinette Poisson、1721-1764)、これがポンパドゥール夫人の誕生名です。
ポンパドゥール夫人は、平民という身分ではあったものの資産家の出身であり、貴族以上の教育をうけ豊かな教養を身につけ、19歳の時に徴税請負人のシャルル=ギヨーム・ル・ノルマン・デティオールと結婚します。
そこから、自分の美貌と頭の良さ、センスの良さをフル活用して、時の国王ルイ15世に取り入り、立身出世を果たしてくのです。
ドイツ生まれのユリアーネ・マリー・フォン・ブラウンシュヴァイク(Juliane Marie von Braunschweig-Wolfenbüttel、1724-1796)は、1752年にデンマーク=ノルウェー連合国の王として君臨するフレデリク5世(1723-1766)のもとに嫁ぎました。
フレデリク5世の前妻ルイーセが亡くなってから7か月後のことでした。
ザクセン選帝侯としてのフリードリヒ・アウグスト1世(Friedrich August I)と、ポーランド・リトアニア共和国の王としてのアウグスト2世(August II Mocny)という2つの顔をもち、"強健王"や"ザクセンのヘラクレス"などとも呼ばれるほど驚異的な怪力の持ち主としても有名なアウグスト強王(1670-1733)。
その異名を証明するため?!しばしば蹄鉄をへし折って見せ、自慢していた!という驚きの逸話も残る彼は、1670年にザクセン選帝侯領の首都ドレスデンに生まれます。
17世紀に、国力をつけたイギリスとフランスは、いずれも積極的な植民地獲得に乗り出し、インド、アメリカ新大陸で互いに争い、ヨーロッパにおいても、スペイン継承戦争、オーストリア継承戦争、七年戦争などで度々、敵対しました。
これら植民地政策や相次ぐ戦争で、多額の費用がかさんでいた18世紀のイギリス。
そこでイギリスは、苦しまぎれに新たな課税を始めることとなりますが、これが国内のみならず、"国外"からも大きな反発を受けることとなります。