ウィーンからマイセンへ!きっかけはマイセンの職人による裏切りだった!?
東洋磁器の熱烈なコレクターとして有名!強健王の異名でも知られるザクセン選帝侯兼ポーランド王であったアウグスト強王。
出典: Wikipedia (アウグスト2世)
そんな強力な庇護者のもと、錬金術師のヨハン・フリードリヒ・ベトガーが当時まだ謎に包まれていた白磁器の製法を解き明かし、ヨーロッパで初めてその焼成に成功したことから、今なおドイツが誇る名窯マイセンの歴史が始まりました。
その後、1717年には染付磁器の焼成に成功し、その新たな歴史を築き始めようとしていたとされるベトガーでしたが、それからまもなく37才という若さで死去。ベトガーを失ったちょうどその頃、マイセンも低迷期を迎えることとなってしまいます。
そんなマイセンにベトガーの死の翌年、彼と入れ替わるかのように登場するのが、伝説的な天才絵付け師として知られるヨハン・グレゴリウス・ヘロルト(Johann Gregorius Höroldt、1696~1775)です。
出典:porzellan-stiftung.de(ヨハン・グレゴリウス・ヘロルト)
ヘロルトは、ドイツ・イェーナの出身といわれ、イェーナといえば現在のドイツ、テューリンゲン州に位置する都市であり、マイセンのあるザクセン州とはお隣同士ではあるのですが、ヘロルトがマイセンにやって来たきっかけはもっと複雑な事情が絡んだ不思議な縁でありました。
出典:depositphotos.com(ドイツ、イェーナ)
ベトガーがヨーロッパで初となる硬質磁器の焼成に成功してからというもの、アウグスト強王はその秘法が外国に流出してしまわないようこれを厳重に管理していたようですが、マイセンでは職人たちが厳しい労働条件のもと働かされていたことも手伝って、外国から好条件を提示され、引き抜かれていく職人も少なくなかったようです。
そんな時、現在もオーストリアが誇る名窯ウィーン窯(アウガルテン)を開いたことで知られるデュ・パキエは、当時この窯を開くにあたり、マイセンの秘法を知るフンガーとシュテルツェルという二人の優秀な職人を招くことに成功します。
ちなみに、この逃亡は厳重に計画され、実行に移されたのだといい、その結果無事にオーストリアにたどりついた二人のおかげで、デュ・パキエはヨーロッパでマイセンに次ぐ2番目に硬質磁器の焼成に成功!
ところが、順風満帆とはいかなかったのか、当初約束されていたという報酬が支払われないことに不満をもったシュテルツェルは、マイセンに帰りたいと考えるように…
しかしながら、あれほど秘法の流出に敏感であったアウグスト強王が、一度裏切り、その上マイセンの功績をウィーンにて再現するのを手伝った自分の罪が簡単に許されるはずはありません。
出典:depositphotos.com(オーストリア、ウィーン)
そこで彼は、当時ウィーンでその才能に魅了された画家のヨハン・グレゴリウス・ヘロルトを連れていけば、彼はきっとさらなるマイセンの発展に貢献してくれるであろうし、そうなればアウグスト強王も満足して自分の帰還も許してもらえるかもしれないと思いつきます。
こうしてヘロルトはシュテルツェルから説得され、マイセンにやって来ることに!しかも、このシュテルツェルの壮大な希望的観測?!は両方とも見事に成就することになるのです。
ヘロルトが挑んだ課題は日本の柿右衛門!?
年少の頃から才能豊かな画家であったというヘロルトですが、その才能を見抜いたフンガーが彼を磁器の絵付け師に転身させたといわれ、元々いたウィーンの窯でもすでに大活躍していたよう。
彼のおかげもあってウィーン窯の絵付けや色彩の分野は急成長していたといいます。
一方、その頃、磁器窯の"本家"といえるマイセンでは、こうした分野の技術の開発がなかなか進まず、ウィーンに遅れをとっていたといわれるほど!
ウィーンから絵の具を持ち出してマイセンに来たともいわれる彼ですが、やはりこの点では彼にとっては不利な環境であったことでしょう…しかしながら、ヘロルトはさっそく王の期待に応えてみせます。
アウグスト強王は、当時ヨーロッパで大流行していた東洋の磁器の中でも、とりわけ伊万里や柿右衛門といった日本の磁器がお気に入りだったようですが、磁器の焼成が可能になっても、絵付けの技術が追いついていないため、憧れの磁器の写しを完成させたい強王の野望は行き詰まっていました。
そこで、さっそくアウグスト強王は柿右衛門の写しを手掛けるという難題をヘロルトに託すことにするのですが、写しの手本として大切なコレクションから本物の柿右衛門を彼に貸し出したといわれていますから、弱冠24才のヘロルトの若き才能に惚れこんだ強王の期待の大きさがうかがえますよね!
彼はさっそく、完成度の高い写しを仕上げるために欠かせない上質で色彩豊かな絵の具の開発から取り組み、見事な写しを完成させて強王を満足させたばかりか、彼によるマイセンの柿右衛門写しはヨーロッパ中で有名となります。
出典:orientalceramics.com(柿右衛門文様のマイセン磁器、18世紀)
こうした柿右衛門の写しは、当初は販売目的というより、磁器における技術力の高さを各地に見せつける目的が強かったとも言われていますが…そんなねらい通り、一時、失速していたマイセンは、ヘロルトの活躍で圧倒的な技術力をヨーロッパ各地に見せつけたのです。
ちなみに、マイセンによる写しはヨーロッパ各地でこれを手本に模倣されたため、今も残る柿右衛門の写しの中には、日本の有田で作られた本物ではなく、マイセンによる写しを手本にしたもの、つまり"写しの写し"もあるのだとか!
その後も柿右衛門の写しに限らず、マイセンによる作品は各地の窯を先導する磁器として模倣され続けていたのだそうです。
ところで、自分の罪の免罪符となってもらうためという目的でヘロルトをマイセンに連れてきたとされるシュテルツェルですが、彼には若きヘロルトの才能がマイセンにて開花するという確信があったからとも言われています。
結果的にではありますが、この転機に一役買うこととなったシュテルツェル、自身も無事、マイセンに舞い戻ることができたのだそうです。
マイセンにて花開いたヘロルトの類まれな才能は、低迷していたマイセンのさらなる発展に必要不可欠な要素であったといえるでしょう。
流行をいち早く取り入れ大ヒット!"ヘロルト・シノワズリー"
マイセンの絵付けにおける技術を著しく向上させたヘロルト、色鮮やかな絵の具の開発は彼の有名な功績の一つですが、その色の数はなんと16色!これには10年かかったともいわれているのだとか。
そんなこだわりの絵の具を用いて彩られる彼の作品は、柿右衛門の写しに限らず、その独特の作風が大好評!
彼によって絵付けされた磁器は柿右衛門に次ぐ人気といわれるほどで、当時のマイセンの評判を高めたのはもちろん、今もなおロングセラーとして愛され続けている作品も誕生します。
出典:Röbbig München(ヘロルト・シノワズリ、18世紀)
ヘロルトは、当時流行していたシノワズリと呼ばれる中国趣味を作品にいち早く取り入れ、これを次第に彼ならではの作風として確立させていくと、"ヘロルト・シノワズリ"と呼ばれて人気を博しました。
中でも、菊や牡丹といった花模様が特徴の「インドの花」は有名で、今でもマイセンの定番の一つとなっています。
出典:マイセン日本公式サイト(インドの華・ピンク)
ちなみに、このタイトルにある「インド」は日本や中国を含むアジアをさしており、その由来は、当時は中国や日本といった東洋の地域は総称してインドと呼ばれていたから、あるいは中国や日本の磁器は東インド会社を通じて輸入されていたから、とも言われています。
こうして、ヘロルトは、東洋をルーツにしながらも、その後にはヨーロッパらしい田園風景や草花といったモチーフも取り入れ、その類まれな才能と独自のセンス、そしてそれを叶える彼自身が生み出した絵の具や色彩の技術によってヘロルト独自のスタイルを築き上げ、やがて後世へと受け継がれるマイセンの伝統として完成させたのです。
ちなみに、こうした伝統の様式や技術は、1764年に設立された芸術学校で学ぶことができるといい、ここで4年間学んだ後、卒業後は実際にマイセン作品に関われるようになるのだとか。
ところで、ヘロルトは柿右衛門の写しを手がける際、複数の職人で同じ作品を仕上げることができるよう、まずは自分が写した柿右衛門の文様を銅版画家に複製させ、職人たちが自分と同じ文様を手本にできるようにして、当時課題の一つであったという職人の訓練に取り組んだという逸話もあるようで、絵付け部門の指導者として職人たちの教育にも尽力したといわれています。
マイセンへ来てから数年で宮廷画家という称号を手にし、その後は製作所の美術監督となるなど大活躍を続けたヘロルトは、69才で引退、1775年にマイセンにて79年の生涯に幕を閉じます。
その長い活動期間におけるヘロルトの作品を年代順にたどっていくと、作品に寄り添うように色彩の技術が進化していくのがわかるともいわれるほど!
長きに渡ってマイセンの作品に携わってその発展を導き、支え続けた彼の偉大な功績ははかり知れませんね!