いとこ同士の政略結婚!
ドイツ・バイエルン選帝侯マクシミアリアン3世ヨーゼフ(Maximilian III. Joseph、1727-1777)は、バイエルン選帝侯から神聖ローマ皇帝となったカール7世と、妃マリア・アマーリエの間に、ミュンヘンで生まれます。
出典:Wikipedia(マクシミリアン3世)
一方、彼の妻となるマリア・アンナ・ゾフィア(Maria Anna Sophia von Sachsen、1728-1797)は、ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト2世(ポーランド王アウグスト3世)と、妃マリア・ヨーゼファの間に、ドレスデンで生まれます。
出典:Wikipedia(マリア・アンナ・ゾフィア)
この頃のドイツは、大小の諸侯が乱立する領邦国家。その中でも特に力をもっていたのは、神聖ローマ帝国の皇帝に関する選挙権をもち「選帝侯」と呼ばれた7諸侯ですから、有力諸侯同士の政略結婚ですね。
そして、双方の母親同士は姉妹!ですから、マクシミリアン3世は一つ年下の従妹を花嫁に迎えることとなるわけです。
夫妻の母親たちは、マリア・テレジアとハプスブルク家継承を争った姉妹!?
ところで、この夫妻の祖父である神聖ローマ皇帝ヨーゼフ1世(1678-1711)は、スペイン・ハプスブルク家に世継ぎがなかったことで、このスペインとその広大な植民地をめぐって、フランスのルイ14世とスペイン承継戦争(1700-1714)で争った人物。
出典:Wikipedia(神聖ローマ皇帝ヨーゼフ1世)
そして、その弟カール大公は、スペイン王を承継する前提で、イギリス、オランダの支援も得て戦いを優勢に進めていましたが、1711年にヨーゼフ1世が後継者を残さないまま33歳の若さで亡くなります。
弟カール大公はスペイン王座をあきらめ、カール6世として神聖ローマ帝国の皇帝に即位することになります。
出典:Wikipedia(神聖ローマ皇帝カール6世)
このカール6世、自分の後継者を娘のマリア・テレジアにしようと画策したため、兄ヨーゼフ1世の娘であるマリア・ヨーゼファ(マリア・アンナ・ゾフィアの母)とマリア・アマーリエ(マクシミリアン3世の母)は、それを阻む可能性のある人物でありました。
出典:Wikipedia(マリア・ヨーゼファ、マリア・アンナ・ゾフィアの母)
出典:Wikipedia(マリア・アマーリエ、マクシミリアン3世の母)
ハプスブルクの正当な継承権を持つ彼女らが結婚した場合、それぞれの夫となった人物が継承権を主張し出すことも有りうるため、カール6世は彼女らが継承権を放棄するのでなければ結婚を許さなかったのだとか!
そんなマリア・テレジアに代わってハプスブルク家の継承者となっていた!?かもしれないマリア・ヨーゼファは1719年に権利を放棄してアウグスト2世(ポーランド王としてはアウグスト3世)と結婚。
1722年には妹マリア・アマーリエも同じく権利を放棄してカール7世と結婚することになったのでした。
結果的にはそれから後、カール6世亡きあとに姉妹の夫たちは妻の相続権を主張し出し、オーストリア継承戦争(1740-1748)へとつながっていくこととなります…
結局、マクシミリアン3世の父はカール7世として神聖ローマ皇帝に即位したものの、マリア・テレジアに反撃され、さらなる戦争の最中に死去…
そのためバイエルン選帝侯を継承したマクシミアリアン3世でしたが、バイエルンの負けを悟ったためか、母マリア・アマーリエはただちに息子を説得してマリア・テレジアと講和を結ばせたのだそう…
親戚同士の争いは息子の世代に移っても続いていくのでした。 当時のヨーロッパ王侯貴族の間では決して珍しくなかったといういとこ同士の結婚とはいえ、マクシミリアン3世とマリア・アンナ・ゾフィアの場合は、そんな複雑な時代背景も考えると興味深いですよね。
進歩的で啓蒙的なマクシミリアン3世の治世
バイエルン選帝侯マクシミリアン3世は、進歩的かつ啓蒙的な思想を持ち、様々な分野でバイエルンの発展に貢献した人物としても知られています。
ミュンヘンにあるロココ様式の美しい劇場であり、「ロココの真珠」とも称されるアルテレジデンツ劇場(キュヴィリエ劇場)は、彼が名建築家であったフランソワ・ド・キュヴィリエに命じて建設させたものです。
1759年に創設されたバイエルン科学アカデミーにも関わったとされ、自身も作曲や演奏を行っていたともいわれるほど、芸術や学問の分野に親しんでいたようです。
出典:depositphotos.com(アルテレジデンツ劇場)
かの有名な音楽家モーツァルトがバイエルンを訪れた際、マクシミリアン3世の前で演奏を披露した?という逸話や、彼の才能は認めつつも、彼が求めてきた職についてはお断りしてしまった?といった逸話もあるのだとか!
ニンフェンブルク窯を創設できたのは磁器にゆかりの深い妻おかげ!?
さて、そんなマクシミリアン3世の最も有名な功績のひとつといえるのが、ドイツ七大名窯に数えられるニンフェンブルク窯を誕生させたことでしょう。
ちなみに、ニンフェンブルクのほかは、マイセン、ヘキスト、ベルリン、フュルステンベルク、フランケンタール、ルドヴィヒスブルクが7名窯と呼ばれています。
何といっても、妻マリア・アンナ・ゾフィアは、ヨーロッパで初めて硬質磁器の焼成に成功した世界的に有名な窯であるマイセン窯の創設者フリードリヒ・アウグスト1世(ポーランド王アウグスト2世)の孫娘!
当時、マイセンの技法は流出しつつあり、各地で続々と新たな窯が誕生していたようですが、やはりマイセン窯に精通していたであろうマリア・アンナ・ゾフィアの協力は大きかったことでしょう。
夫妻の庇護のもと、1747年、ミュンヘン近郊のノイデックにて磁器窯を開きます。 当初は磁器焼成に成功できず中止もやむをえない…という状況だったようですが、フランスのストラスブール窯よりJ.J.リングラー、後に"ブステリ様式"で有名になる陶彫家ブステリらを迎えたことで次第に軌道に乗るように!
1761年にはニンフェンブルク宮殿に移転していますが、現在に至るまで窯は発展を続けていくことになります。
出典:depositphotos.com(ニンフェンブルク宮殿)
ニンフェンブルクの磁器といえば、人物や動物をモチーフにしたロココ風の作品、絵付けを施した美しいテーブルウェアなどが有名ですが、注文を受けてから優れた芸術家によって生み出される高品質な作品であるというのも特徴で、これは開窯当初から今に至るまで受け継がれてきた伝統でもあります。
ちなみに、ニンフェンブルク宮殿の中には陶磁器博物館もあり、ここではニンフェンブルクが誇る貴重なコレクションを見ることができるようです。
マクシミリアン3世亡き後…子どものいない夫妻の後継者となったのは?!
マクシミリアン3世とマリア・アンナ・ゾフィアは子どもに恵まれず、そのため1777年にマクシミリアン3世が死去すると、彼のバイエルン系ヴィッテルスバッハ家は断絶してしまうことに。
彼に代わり、同じヴィッテルスバッハ家でもプファルツ系でありプファルツ選帝侯のカール・テオドール(1724-1799)が、バイエルン選帝侯を継承することとなりました。
出典:Wikipedia(カール・テオドール)
その昔、バイエルン系とプファルツ系に別れていたヴィッテルスバッハ家でしたが、この継承により統合されたというわけです。
ところが、カール・テオドールはバイエルンの統治に熱心ではなく、それどころかバイエルンとオーストリア領ネーデルラント(現在のベルギー・ルクセンブルク)を交換しようという神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世の提案に応じ、これによってバイエルン継承戦争(1778-1779)を巻き起こしたり、
その後もバイエルンが実質的にオーストリアの属国になってしまうという状況を容認するなど、バイエルンをないがしろにするような態度をとり続け…当然ながらバイエルンの国民からは不人気!
一方、バイエルンの独立や、プファルツ系でもツヴァイブリュッケン・ビルケンフェルト家に選帝侯を継承してほしいと願っていたマリア・アンナ・ゾフィアは、その目的を果たすべく積極的に働きかけていたよう。
彼女の計画は、カール・テオドールがバイエルン選帝侯を継承したことや、その後起こったバイエルン継承戦争などで失敗したかに見えましたが、結果的には1799年、カール・テオドールは卒中のためミュンヘンにて死去。
カール・テオドールはふたりの妻を迎えていますが、いずれの妻との間にも子どもがいなかったため、バイエルン選帝侯の立場は、彼の最初の妻の妹の息子であるマクシミリアン4世(1756-1825)が継承することになります。
出典:Wikipedia(マクシミリアン4世)
マクシミリアン4世は、カール・テオドールと対立していたツヴァイブリュッケン・ビルケンフェルト家の出身でしたから、カール・テオドールを嫌っていたミュンヘン市民には歓迎され、また彼らは数日間にも渡ってカール・テオドールの死を祝ったのだとか…
ニンフェンブルク窯とフランケタール窯
ところで、マクシミリアン3世夫妻のニンフェンブルク窯は、マクシミアリアン3世が亡くなったことで、彼の後継者となったカール・テオドールに引き継がれたようですが、彼は彼で自身が買い取ったフランケンタール窯を所有していましたし、どちらかといえばこちらを重要視していたようです。
出典:Wikipedia(フランケタール窯の陶器、1760年頃)
しかし、フランケンタール窯は戦争に巻き込まれるなど、カール・テオドールが亡くなる1799年頃にはほぼ機能していない状態となってしまい、その後、1800年には彼の後継者となったマクシミリアン4世によって正式に閉窯が布告されたようです。
一方、フランケンタール窯の閉窯を受け、ここから職人がニンフェンブルク窯に移ってきたことで、こちらはより活気づく結果となったよう!
ちなみに、ニンフェンブルク窯と同じく、フランケンタール窯もドイツ七大名窯の一つに数えられています。
名窯の歴史は時の君主の歴史とも深く関わっているといえそうですね!