フランス王太子の初婚相手はスペイン王女
フランス国王ルイ15世と妃マリー・レクザンスカの長男であるルイ・フェルディナン(Louis Ferdinand de France、1729-1765)は、生まれながらのドーファン(Dauphin、王太子)として誕生しました。
出典:Wikipedia(ルイ・フェルディナン)
有名な愛人だけでもポンパドゥール夫人にデュ・バリー夫人などなど、数多くの愛人を持ったことで知られる奔放な父王ルイ15世とはタイプの違う人物であったというルイ・フェルディナンは、ローマ教皇とイエズス会の保護を行っていたというほど敬虔なカトリックで厳格な人物だったのだそう!(顔はそっくりですが、性格は真逆な親子だったんですね)
出典:Wikipedia(ルイ15世)
そんな彼は、1745年に、スペインよりマリー=テレーズ=ラファエル・ド・ブルボン(1726-1746)を花嫁に迎えますが、大人しく引っ込み思案な性格であった彼女にいつも寄り添う妻思いの良き夫でもあったようです。
出典:Wikipedia(マリー=テレーズ=ラファエル・ド・ブルボン)
ややイメージしにくいですが、マリー・テレーズは、先代ルイ14世の孫のスペイン王フェリペ5世の娘(ルイ14世のひ孫)であり、彼女と同じくルイ14世のひ孫であるルイ15世とは従妹の関係になります。
もともとフランスとスペインの両国は、ブルボン家のルイ14世が領土拡大のため、跡継ぎのいなかったスペイン王に同じブルボン家のフェリペ5世を擁立してスペイン継承戦争(1700-1714)を引き起こし、神聖ローマ帝国・イギリス等を相手に戦争をするなど、非常に関係が深い国同士でした。
しかし、ルイ15世がフェリペ5世の娘との婚約を破棄。元々はポーランド国王であったものの、現在は没落して弱小貴族となっていた家柄のマリー・レクザンスカと結婚したことで険悪な雰囲気に。
出典:Wikipedia(マリー・レクザンスカ)
この結婚は、両国の関係を修復するための政略結婚でありました。
ちなみに、その少し前、1739年にはマリー・テレーズの兄フェリペが、ルイ・フェルディナンの姉ルイーズ・エリザベートを妻に迎えており、この当時の両国を取り巻く雰囲気が想像できますね!
仲睦まじい夫婦であったというルイ・フェルディナンとマリー・テレーズでしたが、結婚の翌年、マリー・テレーズは待望の出産というとき、難産によって衰弱した末に死去…誕生した一人娘も夭逝、という悲劇に見舞われます。
当然ながらルイ・フェルディナンの落ち込みは大変なものだったようですが、王太子という立場ゆえ子どもをもうける必要のある彼は、本人の意思に関係なく再婚を迫られることに…
花嫁マリア・ヨゼファが嫁いだ先は、再婚に乗り気ではない王太子!?
再婚相手として、スペイン王フェルナンド6世からは、自身の妹(マリー・テレーズの3才年下の妹)のマリーア・アントニアをすすめられたという逸話もあるのだそうですが、ルイ15世はこの提案を断り、代わって有力な花嫁候補となったのがザクセン選帝侯アウグスト2世(ポーランド王アウグスト3世)の娘マリア・ヨゼファ(1731-1767)でした。
出典:Wikipedia(マリア・ヨゼファ)
この縁談の背景には、当時ルイ15世の公妾であり絶大な影響力を持っていたポンパドゥール夫人の、オーストリア継承戦争(1740-1748)のためにザクセンとの強いつながりを築いておきたい、という外交上のねらいがあったようです。
一方、ルイ・フェルディナンの母マリー・レクザンスカにとっては、彼女の父は元ポーランド国王であり、ザクセンのアウグスト3世らとはかつてポーランドの王位を争って敗れた因縁があるため、この縁談に反対していたのだとか…
結局、1747年、ルイ・フェルディナンはマリア・ヨゼファと再婚!
マリア・ヨゼファにしてみれば、亡き妻を想い続ける夫と、(自分の父親の政敵で)結婚に反対していた姑の元へ嫁いでくるわけですから、気が重い結婚だったことでしょうね。
そんな複雑な状況にある彼女でしたが、最愛の妻を亡くしたばかりの夫を思いやり、
"前妻を無理に忘れる必要はありませんよ”
と新郎に優しい言葉をかけたという感動的な逸話があります。
また、最初はぎくしゃくしていたという姑との関係も、二人が共にカトリックを深く信仰していたことや、二人ともルイ15世の奔放な振る舞いを受け入れがたいと感じていた、といった共通点をきっかけに徐々に打ち解けていくように!
そして、姑マリーの父の追悼式でマリア・ヨゼファが彼のメダルを身に着けて出席したことで、公式にも和解となりました。
こうして名をフランス式のマリー=ジョゼフ・ド・サクスと改めた彼女は、フランス王室に見事になじんでいきます。
夫妻は子どもにも恵まれ、5男3女をもうけていますが、夭逝した子どもを除き、息子たちは全員が未来のフランス国王に!
また彼女は、フランス革命という激動の時代に巻き込まれた国王であり、かの有名なマリー・アントワネットの夫ルイ16世の生母ともなります。
マイセン磁器で有名なザクセン出身ならではの贈り物に表れた父と娘の絆!
マリー=ジョゼフ・ド・サクスことマリア・ヨゼファの出身地ドイツのザクセンはヨーロッパ初の硬質磁器を生んだ名窯マイセンで有名ですが、マリア・ヨゼファはその創始者アウグスト強王の孫娘!
そんな磁器にゆかりの深い彼女は、フランスに嫁いだ際、結婚祝いの返礼の品として、磁器のブーケを祖国の父へ贈ったという逸話があります。
彼女の父アウグスト3世は愛娘からのこの贈り物に大変喜び、さっそくマイセンにて花瓶と台座を作らせてドレスデンの宮殿に飾ったのだそうです。
出典:https://skd-online-collection.skd.museum(ヴァンセンヌ磁器のブーケ)
一度国境をまたいで嫁いだら最後、母国へ帰ることはできなかったといわれるこの時代、磁器にゆかりの深い一家だからこその父と娘の絆がうかがい知れるエピソードです。
ところで、彼女が贈ったこの磁器のブーケは、1740年頃からパリ東部のヴァンセンヌ城内に開かれたヴァンセンヌ磁器製作所にて作られたものであり、当時こうした磁器は、マーシャン・メルシーと呼ばれ、パリに店を持って上流階級向けの装飾品を扱っていた店に独占的に卸されていたのだそうです。
そんなマーシャン・メルシーの中でも特に有名であったのがラザール・デュヴォウの店で、こちらの販売記録には1748年頃からヴァンセンヌ磁器が登場しており、これ以降、1759年頃までの顧客リストには、ルイ15世や彼の公妾ポンパドゥール夫人らと並び、マリー=ジョゼフ・ド・サクスの名前も残っているのだそう!
ちなみに、このヴァンセンヌの磁器製作所はその後、これに興味をもったポンパドゥール夫人によってヴェルサイユや彼女の居城ベルヴュー城の近く、セーヴルに窯を移し、ルイ15世が買い取ったことで1759年より正式に王立磁器製作所となって発展!
最初はマイセン磁器を模倣していたセーヴル磁器でしたが、少しずつ独自のスタイルを築いていったのだとか。
こうして、セーヴル磁器は長い歴史を誇るフランスを代表する磁器となり、今なお愛され続けています。
ところで、ポンパドゥール夫人といえば、外交の一環としてザクセンと強固なつながりを持つため、ルイ・フェルディナンとマリア・ヨゼファの縁談をまとめようとしたのも彼女でありました。
やはりアウグスト強王の孫娘マリア・ヨゼファですから、磁器にゆかりの深い彼女を迎えたことで結ばれたマイセン磁器のザクセンとフランス王室の絆は、磁器の分野においてもその発展に影響を与えたといえるかもしれませんね!
夫妻は若くして死去…激動の時代を生きることとなる子どもたち…
ルイ・フェルディナンは、1765年、36才にして父王ルイ15世より先に亡くなり、王太子のまま、国王に就くことはありませんでした。
彼の死に大変ショックを受けたといわれるマリー=ジョゼフ・ド・サクスもその二年後、同じく36才という若さで亡くなります。
この時、最年長の息子、後のルイ16世でさえ13才…幼い子どもたちを残し亡くなった夫妻は、彼らの結婚や即位といった将来を見ることは叶いませんでした。
その後、訪れるフランス革命(1789-1799)の激動に巻き込まれ、ルイ16世や、その妻マリー・アントワネットとも親しかった末娘エリザベート・フィリッピーヌ・ド・フランスは、最後にはギロチンで処刑されてしまいます。
出典:Wikipedia(ルイ16世)
出典:Wikipedia(エリザベート・フィリッピーヌ・ド・フランス)
エリザベートは、心優しい性格で、兄や姉たちと大変親しく、一度嫁いでしまうと祖国には戻れないというこの時代ですから、結婚の申し込みを全て断り、生涯彼らの元で暮らすことを選択!未婚を貫きました。
兄ルイ16世が花嫁マリー・アントワネットを迎えてからは、義理の姉となった彼女とも親しく付き合うようになり、一緒に育った仲良しの姉クロティルドが嫁いでしまい、悲しみに暮れていたエリザベートをマリー・アントワネットが慰め続けたというエピソードもあります。
ルイ16世とマリー・アントワネットは、その後、国王夫妻の立場から一転、ギロチンで処刑されるという悲劇の運命をたどっていくこととなりますが、残念ながらエリザベートもまた処刑によって悲劇の生涯の幕を閉じることとなります。
出典:Wikipedia(斬首後、革命派によって民衆に示されるルイ16世の首)
どこか外国に嫁いでいれば、生き延びることができたともいわれていますが、最後の最後までルイ16世夫妻に寄り添い続け、その運命を共にしたエリザベート…
そんな彼女へマリー・アントワネットは処刑される直前に手紙を書いていますが、その相手がほかの誰でもなく彼女であったとことからも、二人の絆が深さをうかがい知ることができます。
一方で、ルイ16世の弟たちは、フランス革命の後にそれぞれフランス国王に就き、次女クロティルド・ド・フランスのように、現在のイタリア・フランスに領土を持っていたサルデーニャ王国に嫁ぎ、祖国フランスへは生涯戻らず、その人生を全うした人物もいます。
激動の時代の中で、子どもたちがこのように明暗を分けた生涯を送ることになるとは…共に36才という若さで亡くなった両親ルイ・フェルディナンとマリー=ジョゼフ・ド・サクスには知る由もありませんでしたが、知らない方が良かったのかもしれませんね。
参考資料
「ヨーロッパ陶磁器の旅―ドイツ・オーストリア篇 」、浅岡敬史(著)、中公文庫(1998)
「ヨーロッパ陶磁器の旅―フランス篇」、浅岡敬史(著)、中公文庫(1998)