ユリアーネ・マリーが嫁いだ先は欧州で最も伝統のあるデンマーク王室
ドイツ生まれのユリアーネ・マリー・フォン・ブラウンシュヴァイク(Juliane Marie von Braunschweig-Wolfenbüttel、1724-1796)は、1752年にデンマーク=ノルウェー連合国の王として君臨するフレデリク5世(1723-1766)のもとに嫁ぎました。
フレデリク5世の前妻ルイーセが亡くなってから7か月後のことでした。
出典: Wikipedia (ユリーアネ・マリー)
デンマーク王室といえば、日本ではあまり馴染みがありませんが、王家としての始まりは8世紀とも10世紀とも言われており、あの英国王室よりも伝統があり(英国王室は11世紀のフランスから上陸したノルマンディー公ウィリアムが最初と言われている)、欧州ではもっとも古い王室です。
この当時のデンマーク=ノルウェー連合国は、デンマークがノルウェーを従属させる形で指導権を握っていましたが、その力は決して強固なものではありませんでした。
デンマークが最も強大になったのは、15世紀。北欧三国の中心国として、力を誇示していました。
しかし、1618年からドイツで30年間続いた宗教戦争である「30年戦争」に介入したことが元で、領土を失い、勢力が衰退。
ユリアーネ王妃の夫フレデリク5世(Frederik 5、1723-1766)がデンマーク=ノルウェー連合国を治めていたのは、ちょうどデンマークが勢力を失いつつある時代だったのです。
そのため、対外政策よりも国内の情勢を良くする政策に追われることになります。
出典: Wikipedia (フレデリク5世)
ドイツから嫁いできてデンマーク語もままならないユリアーネ王妃は、王にとって格別役立つ存在ではありませんでした。むしろ、死別した前妻のルイーセ前王妃に比べるとユリアーネ王妃の存在は皆無に等しかったと言われています。
国民からの不人気が拍車を掛けたこともあって、ユリアーネ王妃とフレデリク5世との関係は始終微妙でした。王からもまともに相手にされないユリアーネ王妃はデンマーク王室に全く馴染めず、肩身の狭い思いをしていたのです。
そうしたこともあって、夫が在位中は政治的な関与は一切せず、ユリアーネ王妃は陰の人となってしまいました。
さらに、フレデリク5世の死後は、前妻ルイーセとの間の子、クリスチャン7世(Christian VII、1749-1808)が即位。元よりユリアーネ王妃のことを好んでいなかったクリスチャン7世は、ユリアーネへの嫌悪感を露わにします。夜会にも夕食会にも一切呼ばなかったと言われています。
前妻の子クリスチャン7世のスキャンダルをきっかけに権力を掌握
しかし、クリスチャン7世は生まれた時から精神病を患っていたこともあって、政治能力は皆無。
出典: Wikipedia (クリスチャン7世、1772)
イギリスから嫁いできた王妃カロリーネ(Caroline Matilda of Wales、1751-1775)は、精神を病んだクリスチャン7世に振り回され孤独な生活を送っている中で、王の侍医となったドイツ人医師のストルーエンセ(Johann Friedrich Struensee、1737-1772)と愛人関係となります。
一方で、ストールエンセは王のよき理解者として、次第に政治にも介入していきます。
出典: Wikipedia (カロリーネ王妃)
出典: Wikipedia (ストールエンセ)
なお、この3角関係は、デンマークの教科書にも載っているくらい有名な話だそうで、「ロイヤル・アフェア 愛と欲望の王宮」(2012)というタイトルで映画にもなっています。
さて、ユリアーネの反逆はここから始まります。
政治の実権を握っていたカロリーネ王妃とストールエンセは、自由主義に傾倒していたため民主的な法律の成立を推し進めますが、これが貴族達の反感を招き、ユリアーネは反ストールエンセ派貴族の中心となっていきます。
1772年には、クリスチャン7世の愛人を宮廷から追放し、そして、カロリーネの不貞を公にし、ストールエンセは処刑、カロリーネもデンマークから追放してしまいます。
この時、クリスチャン7世はというと、愛人と妻を一気に失ったことから持病の精神病を悪化させ、狂気に走っていました。
そんな狂人に国を任せようなどと思う人間はおらず、ユリアーネの息子フレデリク(Frederik af Danmark、1753-1805)が摂政に就きます。
出典: Wikipedia (ユリアーネの息子のフレデリク)
当時フレデリクはまだ18歳だったということもあり、それからしばらくはユリアーネが実権を握り、貴族に優位な政策をどんどん行いました。
そのため、ユリアーネは貴族からは神だと謳われ、平民からは悪魔だと呼ばれていました。
しかし、このユリアーネによる極端な貴族中心政治も長くは続かず、1784年のフレデリク6世(クリスチャン7世とカロリーネ王妃との子供)の即位によって終焉します。
12年という短い間ではありましたが、ユリアーネは実感を握り、国を動かしていたのです。ユリアーネは陰の人と思われがちですが、王太后になってから本領を発揮したのです。
出典: Wikipedia (フレデリク6世)
ちなみに、フレデリク6世の妹ルイーセ・アウグスタ王女は、クリスチャン7世とカロリーネ王妃との子供となっていますが、実際にはストールエンセの子供ではないかと信じられています。
そういわれてみれば、確かに顔がストールエンセに似ているような、、、
出典: Rosenborg Castle (ルイーセ・アウグスタ王女)
ユリアーネ王妃なしに、ロイヤルコペンハーゲンの誕生はありえなかった?!
先にも述べたように、夫フレデリク5世は国内の充実化にとても力を入れた政策を行っていました。
国内の充実化の中には、芸術や教育も含まれていました。コペンハーゲン王立劇場やデンマーク王立美術院(王立デンマーク芸術アカデミー)の創設も手掛けたのです。
出典: depositphotos.com (王立劇場)
ユリアーネ王妃も、芸術や文化には関心がありました。しかし、彼女が特に興味を示したのは陶磁器。自分たち王室が専用に使うための陶磁器を求めたのです。
そこで、ロイヤル・デニッシュ磁器製陶所に王室用の陶磁器の製作を命じました。これが、「ロイヤルコペンハーゲン」の始まりです。
ユリアーネ王妃の生まれ育ったドイツでは、彼女が生まれる前の1710年にマイセンが誕生しており、彼女の実兄は、ドイツ7大名窯に数えられるフュルステンベルクを創立したカール1世(ブラウンシュヴァイク・ヴォルフェンビュッテル公爵)でもあり、ユリアーネは美しい陶磁器に慣れ親しんで成長しました。
このため、自国デンマークに王室御用達の陶磁器メーカーが無いという事態は考えられなかったということもあって、王室御用達の陶磁器メーカーを直々に立ち上げてしまったのです。
1775年には、フレデリク5世とユリアーネ王妃の認可を得て、ロイヤルコペンハーゲンは王室御用達窯となっていますが、ユリアーネ王妃の援助と支援がなかったならば、ロイヤルコペンハーゲン設立は実現されなかったかもしれませんね!
出典: Wikipedia (デンマークのロイヤルコペンハーゲン本店)
ユリアーネ王妃の貢献に敬意を表して、ロイヤルコペンハーゲンのゲストルームにはユリアーネ王妃の大きな肖像画が掲げられています。もし、ロイヤルコペンハーゲンを訪れる機会があったら、是非見てみてください。
ユリアーネ王妃は、ロイヤルコペンハーゲンの創設後も、ロイヤルコペンハーゲンを熱心に支援し続けました。マイセンの職人を呼び寄せるなど最大限の支援をしながら、ロイヤルコペンハーゲンを支え続けたのです。
ユリアーネ王妃と同時代を生きた、ロシアの女帝エカテリーナ2世との接点
ちなみに、ユリアーネ王妃がドイツに誕生した5年後、同じドイツに誕生した少女がいました。それが、エカテリーナ2世(Екатерина II Алексеевна 、1729-1796)です。
出典:Wikipedia(エカテリーナ2世)
奇遇にも2人が死んだ年は同じ1796年(ユリアーネ王妃は10月に死去。エカテリーナ2世は翌月11月に死去)。
2人が直接的な交流を持つことは一度としてなかったと言われていますが、2人の間には一つの接点がありました。それが、「ロイヤルコペンハーゲン」です。
ユリアーネ王妃は、ロイヤルコペンハーゲンの創設者であり、エカテリーナ2世は愛用者だったのです。エカテリーナ2世のお気に入りは、ロイヤルコペンハーゲンの「フローラ・ダ二カ」だったとか。
出典: ロイヤルコペンハーゲン公式ページ (フローラ・ダニカ)
ドイツ人でありながら、異国ロシアで女帝として長く国を治めたエカテリーナ2世。
同じくドイツに生まれながら、異国デンマークの地で居る場所を失い、ほとんどの期間で政治的な力を持てず陰の人となってしまったユリアーネ王妃。
同じ時代に生きながら、全く違う人生を歩んだ2人の女性の間に、ロイヤルコペンハーゲンという存在があったというのは、なかなか面白い接点といえそうです。
参考資料
「物語 北欧の歴史―モデル国家の生成」武田龍夫(著)、中公新書(1993)