お茶が原因で本国イギリスと植民地アメリカが対立!?
17世紀に、国力をつけたイギリスとフランスは、いずれも積極的な植民地獲得に乗り出し、インド、アメリカ新大陸で互いに争い、ヨーロッパにおいても、スペイン継承戦争、オーストリア継承戦争、七年戦争などで度々、敵対しました。
これら植民地政策や相次ぐ戦争で、多額の費用がかさんでいた18世紀のイギリス。
そこでイギリスは、苦しまぎれに新たな課税を始めることとなりますが、これが国内のみならず、"国外"からも大きな反発を受けることとなります。
当時、イギリスは北米大陸のアメリカ13州を植民地としていましたが、植民地といっても、イギリスから移り住んだ人々が多く暮らしていたため、税金に関しては優遇されていました。
出典:https://www.worldatlas.com/(13州の植民地)
しかし、イギリス国内で重い税金に苦しめられている人々から、この特別待遇に対する不満が持ち上がり始めたため、植民地側にも同じように課税を始めることに…
1767年、お茶や紙、ガラス、ペンキ、鉛といった品目を対象としたタウンゼンド法と呼ばれる税制度が制定されますが、植民地側はイギリス製品の不買運動を起こすなどしてこれに猛反発!
本国イギリスは、関税当局を支援するため、イギリス海軍まで派遣しましたが、結果、わずか3年でこの制度の撤廃を余儀なくされました。
出典:Wikipedia(1768年、ボストンに上陸するイギリス軍)
しかし、この頃、イギリス本国と同じく植民地側でも流行していたお茶の税金だけは撤廃されませんでした。
喫茶文化が流行中のイギリスから移り住んだ人々が暮らしていたため、当然といえば当然ですが、植民地側にも本国にあるティーガーデンのような娯楽施設まであったといい、また上下水道が十分に整っていない土地にはお茶の殺菌作用が欠かせないという意味もあって、植民地側の人々にとってお茶は単なる嗜好品ではなく、生活必需品でありました。
本国は、そんな生活必需品のお茶であればいくら税金が高くても買わざるをえないだろうと考えたのです。
お茶の密輸が横行した結果は?
しかし、本国の思惑とは裏腹に…人々は何とか重い経済的負担から逃れてお茶を手に入れようとしたため、今度はお茶の密輸が横行し始めます。
人々が正規のルートから買わず、フランスやオランダといった外国からの密輸の安いお茶を買い求めるようになったことで、大量の在庫を抱えることとなってしまったのがイギリス東インド会社です。
出典:Wikipedia(イギリス東インド会社、インド・チェンナイの要塞)
そこで、この東インド会社を救済するため、本国は1773年に茶法を制定し、東インド会社が密輸業者より安く、また市場を独占して販売できるよう取り計らいますが、これに対して植民地側の怒りは爆発寸前!
植民地側は、密輸業者のみならず、一般の業者や消費者も含めた市場を東インド会社が独占することになるとして反発しました。
やがて、人々の怒りは次第に重い税金に対する不服から、結果的には、何でも本国が決定を下すために植民地側が政治に関われないということに対する不満へと形を変えることになっていきます。
ボストン港をティーポットにする?!ティーパーティー事件とは?
「東インド会社が、植民地のお茶市場を独占する権利」を認めた茶法が成立してから、さっそく東インド会社の船が植民地アメリカへ到着すると、案の定、どの港でも人々は猛抗議!
中でも、特に反英感情が強かったとされるボストン港は荷揚げすることもできず、また引き返すこともできないまま停泊しているしかできない状況だったのだとか…
そんな緊迫した現場でついに事件が勃発!
"自由の息子たち"と名乗る50人もの急進派の集団が船を襲撃し、積み荷のお茶300箱以上を破壊した挙句、海中に放り出し、夜の闇に紛れて逃走したのです。
このとき、彼らは
ボストン港をティーポットにしてやった!
などと叫んでいたといい、またこの騒ぎに駆けつけた市民たちもこれをただ傍観するだけ…
ボストンでティーパーティーが開かれただけだ!
などと冗談を言っていたのだとか。
そのため、この事件は「ボストンティーパーティー事件」と呼ばれることとなりました。
出典:Wikipedia(ボストン茶会事件)
ちなみに、本国が犯人探しに乗り出したものの、真犯人は見つけられなかったのだそうですが、誰もがこの過激な行動に賛成していたわけではなく、現地でも賛否が分かれる事件だったのだとか…
それにしても、もったいない。このお茶の被害総額は、当時の金額で9千ポンド(現在の価値では100万ポンド=約1.5億円)にものぼる相当なもの!
これに怒った本国は、報復としてこの被害総額を弁償するまでという条件をつけてボストン港を閉鎖してしまいました。これを受け、植民地側では本国との取引停止が決まり、本国製品のボイコットなどが引き起こされることに…
イギリスは紅茶、アメリカはコーヒー?
この"ボストンティーパーティー事件"をめぐり、本国イギリスと植民地アメリカは、最終的に引き起こされる独立戦争(1775 - 1783)へと加速しながら向かっていくことになります。
出典:Wikipedia(「レキシントン・コンコードの戦い」アメリカ独立戦争が始まる契機となった英米間の戦闘)
また、こうした本国への反発を機に、植民地側の人々は密輸業者も巻き込んでのお茶の不輸入運動を展開し、ボストンの婦人たちはお茶ではなくコーヒーを飲むという誓いまで立てて反抗したのだそう…
今でこそ主流な飲み物といえばイギリスでは紅茶、アメリカではコーヒーですが、この風潮はここから始まったともいえそうです。
政治的な混乱から日常の生活習慣まで…当時の人々の暮らしに大きな影響を与えたボストンティーパーティー事件は、今のイギリスとアメリカを形づくるきっかけとなったといっても過言ではないかもしれませんね!
減税だけでなく、お茶の普及にも大貢献!リチャード・トワイニング
一方、本国イギリスでも正規ルートから入るお茶には高い税金が課せられており、またオランダからの大規模な密輸はお茶の仕入業者や政府にとって深刻な問題となっていました。
そこで立ち上がったのが現在まで広く愛され続ける老舗紅茶ブランド、トワイニングの四代目リチャード・トワイニング(Richard Twining、1749-1824)です。
出典:Wikipedia(リチャード・トワイニング)
トワイニングは、創始者のトーマスから、息子のダニエル、彼の妻メアリーと続き、1771年からは彼女の長男リチャードへと受け継がれ、順調に発展を続けていました。
しかし、いくらお茶が一般に浸透しつつあっても、やはりお茶の価格が高く、購入できるのは上流階級の人々のみというのが現状…
そこで、茶団体の会長まで務めるほど業界では優れた経営者として有名であったリチャードは、当時の首相ウィリアム・ピットと直接意見交換を何度も重ね、ある提案を持ちかけました。
出典:Wikipedia(ウィリアム・ピット)
それは、税金を高くしてお茶の密輸が横行し、国内で得られるはずの収益が海外に流れ出てしまうのなら、税金を安くして正規ルートのお茶の販売量を増やした方が、結果的に税収は増えるのではないか、というものでした。
さらにリチャードは、問題の茶税を撤廃することに伴う歳入の損失についても、茶業者がその埋め合わせとして以降4年にわたって国庫に納入すると申し出たのです。
やがてリチャードの熱意は首相に伝わり、1784年の減税法によってお茶の税金引き下げに成功!
なんと、119%まで膨れ上がっていたお茶の税金は約10分の1の12.5%にまで下がりました。
ここまで安くなれば、もう人々は騙されるかもしれない怪しい密輸のお茶をわざわざ買い求める必要はありません!
ようやく密輸は減少し、代わりに正規ルートの東インド会社の輸入量が増えたことで、これまでのように茶の売上金が国外に流出するのを防いだばかりか、それまでお茶の価格に手が届かなかった人々もお茶を購入しやすくなり、茶の販売量も飛躍的に伸びる結果となりました。
リチャードの思い切った提案は、お茶の業者にとっても、政府にとっても、また一般の消費者にとっても喜ばしい大成功を収め、また、上流階級だけでなく、一般の人々まで広く紅茶が浸透するのに大貢献!
この功績以降、トワイニングは文字通り名実共に長く愛され続けるブランドとしてさらなる発展を遂げていくこととなります。