マリー・アントワネットの悲劇は、輿入れのときから暗示されていた?!
マリー・アントワネット(Marie-Antoinette、1755-1793)は、オーストリア皇帝のフランツ1世とその妻マリア・テレジアとの間に、第15子としてウィーンに誕生します。ドイツ語名ではマリア・アントーニア。
出典: Wikipedia (少女時代のマリー・アントワネット)
この時代は、ヨーロッパ大陸で急速に国力をつけるドイツ(プロイセン)の脅威に対抗し、オーストリアのマリア・テレジア、フランスのポンパドゥール夫人、ロシアのエリザベータ女王の3人の女性が主導して、ドイツ(プロイセン)に対抗する包囲網を形成した時期にあたります。
しかし、オーストリア「ハプスブルク家」といえば、ローマ帝国の正統後継者として神聖ローマ帝国皇帝を代々世襲する超名門一族、そして、もう一方のフランス「ブルボン家」も、ルイ14世の治世にいち早く絶対王政を確立し飛ぶ鳥を落とす勢いの華麗なる一族。
この2国は、数百年間にわたって、ヨーロッパ大陸での覇権を争う宿敵関係でしたので、一旦は同盟関係を結べたものの、いつ瓦解してもおかしくない状態のため、早いうちに一層の関係強化を図る必要がありました。
そこで白羽の矢がたったのが、オーストリア側は14歳のマリー・アントワネット、フランス側は15歳の王太子(後のルイ16世)です。幼いマリー・アントワネットは、両家融和の象徴として、フランスに輿入れすることになります。
出典: Wikipedia (ルイ16世)
1770年に執り行われた幼いふたりの結婚式は、それはそれは華やかで豪華絢爛、ヨーロッパ中の注目を集めるものでした。
57台の馬車、373頭の馬が連なるアントワネット一行は、国境の街ストラスブールに到着。
両国の協議の結果、オーストリアとフランスのどちらにも属さない場所ということでライン川の中州に、花嫁引渡しのための式場を建てることに。
このお祭り騒ぎをひと目見ようと考えたのが、当時、ストラスブール大学の学生であった、後の大詩人ゲーテ(Goethe、1749-1832)。
出典: Wikipedia (青年時代のゲーテ、1765-1768頃)
彼は、見張り番にお金をつかませ、こっそりと式場を見学しますが、そこで彼が目にしたものは、ギリシャ神話の「王女メディア」の物語をテーマにした豪奢なタペストリーでした。
ゲーテは、およそ結婚式にふさわしくないこのタペストリーに憤慨しますが、周囲のひとは「気にし過ぎですよ」と取りあわず。
出典: Wikipedia (「わが子を殺そうとするメディア」ドラクロワ画)
コルキス(現在のグルジア西部)の王女であったメディアは故郷を捨て、コリントス(ギリシア)で英雄イアソンと夫婦生活を過ごし、2人の子供までなしていた。
しかし、コリントス王が自分の娘婿としてイアソンを望み、また、権力と財産に惹かれたイアソンも、メディアと子供たちを捨てこの縁組みを承諾。
捨てられたメディアは、復讐を決意し、コリントス王とその娘を殺害、自分とイアソンの間に生まれた子供たちまで手にかけて、悲しみに打ちひしがれるイアソンを残して去っていく、、、というお話なのですが。
イアソンを、メディア(フランス国民)とコリントス王の娘(マリー・アントワネット)の間で揺れ動くルイ16世と読み替えてみれば、ゲーテの憤りももっともな気がしますね。
マリー・アントワネットのギロチンへの運命は、婚礼の時から既に始まっていたと言えるのかも知れません。
マリー・アントワネットは本当に、贅沢三昧で、頭の悪い王妃だったのか?!
結局、1770年、ふたりの結婚式はヴェルサイユ宮殿にて挙行され、マリア・アントーニアは、フランス式に名前を改めて、フランス王太子妃「マリー・アントワネット」と呼ばれることになりましたが、ルイ16世との結婚は、当初は順風満帆とは言えなかったようです。
出典: depositphotos.com (ルイ16世とマリー・アントワネットが結婚式をあげたヴェルサイユ宮殿のロイヤル・チャペル)
結婚すると間もなく、マリー・アントワネットは、義理の祖父となる国王ルイ15世の公妾デュ・バリー夫人と対立。
実母マリア・テレジアからの忠告もあって、激しい対立は避けられたものの、それ以降、オーストリア出身のマリー・アントワネットの存在を面白く思わない貴族たちとの冷戦状態が続きます。
頼みの綱のルイ16世はというと、女遊びはせず、錠前づくりが趣味という、素朴で誠実な人柄ではありましたが、ややもすると優柔不断な性格。
また、ルイ16世は包茎だったようで、当時でも簡単な外科手術で治療できたはずが、手術を恐れてこれを避ける始末。
これが原因なのか、夫婦生活もあまりなかったようで、結婚してから7年もの間、ふたりの間には子供が出来ないという状態でした。
宮廷内には敵がいるわ、夫には相手にされないわ、でもお金は使える、という10代後半の少女のストレス発散方法は想像に難くありません。
豪華なファッションと、取り巻き連中にそれを披露するなパーティーです。
マリー・アントワネットは、瞬く間に宮廷でのファッション・リーダーとなりますが、特にその髪型はどんどんエスカレートし、当初は顔の1.5倍ほどの盛り髪だったものが、草木を飾りにつけたり、船の模型をのせてみたり、ド派手な方向に迷走していきます。
出典: Wikimedia Commons (当時流行したヘアースタイル)
この状況を見かねた母マリア・テレジアは、オーストリアからマリー・アントワネットの兄を送り、ルイ16世に手術受けるよう説得し、ようやく正常な夫婦となったふたりの間には4人の子供が生まれました。
出典: Wikipedia (マリー・アントワネットとマリー・テレーズ王女、ルイ王太子)
母親としてのマリー・アントワネットは良い母親であったようで、ファッションも簡素なものを好み、ヴェルサイユ宮殿のプチ・トリアノンに、イギリス式の庭園と農村に見立てた素朴な小集落をつくらせ、自然の中で子供を育てつつ、家畜を眺めるような生活を送ります。
出典:Wikipedia (プチ・トリアノン)
さらには、とにかく格式ばっており、何かにつけ秘密主義であったヴェルサイユ宮殿内の習慣や儀式を、簡素化・公開化していくことにも力を注ぎました。
しかし、こうした合理的な施策は、宮廷内での序列や特権をなくしていくことを意味し、オーストリア出身の王妃を敵視するグループを育てることにもまた繋がっていくのです。
「お菓子を食べればいいじゃない」発言と消えた首飾り事件
マリー・アントワネットと言えば、贅沢三昧でフランスの財政を悪化させ、ついにはフランス革命まで引き起こしてしまった世間知らずの王妃、というイメージが強いですね。
実際に、この当時のフランスは2億ルーブルの歳入に対して、40億ルーブルもの国債を抱え込んでいたと言われてます。
でも、マリー・アントワネットのの浪費はせいぜい国庫の1-3%に過ぎず、フランスの借金がここまで膨らんだのは、ルイ14世、ルイ15世時代から相次ぐ戦争と植民地開発の失敗(16億ルーブル)、そして、ルイ16世によるアメリカ独立戦争の支援(20億ルーブル)が真相、であることがわかっています。
出典: Wikipedia (アメリカ独立戦争でフランスが参戦したジブラルタル包囲戦)
にもかかわらず、マリー・アントワネットが「赤字夫人」とまで呼ばれるようになったのは、ひとつには彼女の悪目立ちした奇抜なファッションやパーティーと、反マリー・アントワネット(反オーストリア)の貴族達による陰口が、パリ民衆にまで広まり、信じられてしまったことにあります。
それを象徴するのが、「お菓子を食べればいいじゃない」発言と、消えた首飾り事件。
前者は、飢饉が続き食糧難で困窮していた民衆に対し、マリー・アントワネットが「パンがなければ、お菓子(ブリオッシュ)を食べればいいじゃない」と、発言したとされているものですが、実際に彼女がそのような発言をした記録はどこにも残っておらず、それどころか、彼女は宮廷内では貧しい人々のために募金を募ったり、いわゆる篤志家としての活動を積極的に行っていたようです。
出典: Wikipedia (ブリオッシュのアレンジ)
また、1785年におきた「首飾り事件」は、かいつまんで言うと、宰相の地位を狙い、なんとかしてマリー・アントワネットとお近づきになりたかったルイ・ド・ロアン枢機卿が、マリー・アントワネットの親しい友人を装ったジャンヌ・ド・ラ・モット伯爵夫人に、160万リーブル(30億円)もする首飾りをだまし取られた、という事件です。
出典: Wikipedia (ラ・モット伯爵夫人)
出典: Wikipedia (首飾りのレプリカ)
この事件でのマリー・アントワネットの立場は、勝手に名前を利用された被害者でしかなかったのですが、実はラ・モット伯爵夫人とグルだったとか、レズビアンの関係にあったとか、パリ民衆に面白おかしく喧伝され、評判をさらに落としてしまいます。
これだけでも、当時のマリー・アントワネットを取り巻く、フランスの雰囲気がわかりますね。
ギロチンで処刑される最期の瞬間まで、王妃の気品と優雅さを失わなかった
1789年7月14日、王政に対する民衆の不満がとうとう爆発し、フランス革命が勃発します。
出典: Wikipedia (フランス革命の端緒となったバスティーユ襲撃)
そして、革命が起きた途端、それまでマリー・アントワネット派で、おいしい思いをしてきた貴族たちは、一目散に国外へ亡命してしまいます。
国王一家は、ヴェルサイユ宮殿に残り、必死に革命への鎮静化を図りますが、一度、勢いのついた民衆の怒りには抗えず、パリのテュイルリー宮殿に身柄を移されてしまいます。
1791年、家族の身に差し迫った危険を感じたマリー・アントワネットは、フランスを脱出してオーストリアに助けることを考え、庶民に化けてパリを脱出しますが、結局、国境近くのヴァレンヌで捕えられ、パリへ連れ戻されてしまいます。
このヴァレンヌ逃亡事件により、国王一家は、既に数少なくなっていた親国王派の国民たちからも見放されてしまい、より厳しい立場に追い込まれていくことになります。
出典:Wikipedia (ヴァレンヌ逃亡事件で捕まる国王一家)
その2年後、革命裁判所は、ルイ16世とマリー・アントワネットに、ギロチンによる斬首刑を言い渡します。
馬車で処刑台へ送られたルイ16世とは対照的に、マリー・アントワネットは、髪を短く刈り取られ、両手を後ろ手に縛られたまま、肥を運ぶ荷車に長時間ゆられて、処刑台へ引き立てられていったそうです。
出典: Wikipedia (ギロチンへ引き立てられるマリー・アントワネット)
これだけ屈辱的な扱いをされながらも、その最期の言葉は、死刑執行人シャルル=アンリ・サンソンの足を踏んでしまった際の、「お許しくださいね、ムッシュウ。わざとではありませんのよ。でもあなたの靴が汚れなくて良かった。」だと言われています。
ちなみに、マリー・アントワネットと長年相容れなかったデュ・バリー夫人も、同じくギロチンで処刑されていますが、その最期は、激しく泣いて命乞いをしたとされており、彼女の最期は、さすがにヨーロッパを代表する名家出身としての気品と優雅さにあふれていますね。
「マリー・アントワネット」の名前を冠した陶磁器たち
ファッションに多額のお金をつぎ込んだマリー・アントワネットは、陶磁器や食器も色々なものを所有していました。
母マリア・テレジアが支援していたアウガルテンはもちろん、ルイ15世が愛用していたフランス高級陶磁器セーヴル、ドイツのマイセンなど。
また、彼女がなくなってからも、有名陶磁器メーカーから「マリー・アントワネット」の名前を冠したシリーズがいくつも発売されていますので、特に有名なものをご紹介します。
マリーアントワネットの、故郷オーストリアのアウガルテンは王者の風格を感じさせるデザイン、嫁ぎ先フランスのロワイヤル・リモージュは楚々とした可憐なデザインとなっており、同じ名前でも各ブランドでその特徴が異なっており面白いですね。
アウガルテンの「マリー・アントワネット」
出典: Augarten 日本公式サイト
ロワイヤル・リモージュの「マリー・アントワネット」
ロワイヤル・リモージュ(Royal de Limoges)は、1986年にベルナルド(Bernardaud)の傘下に。このシリーズは、1782年にマリー・アントワネットがセーヴル窯に注文したものの復刻版です。
出典: Bernardaud 公式サイト
ロイヤル・クラウン・ダービーの「ロイヤル・アントワネット」
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参考資料
「王妃マリー・アントワネット」エヴリーヌ・ルヴェ(著)、遠藤ゆかり(訳)創元社(2001)