15才で単身渡米!始まりは小さな食料品店から
世界各国から愛される有名紅茶ブランド、リプトン。
日本で初めて輸入された紅茶はリプトンであり、日本人にとっても大変なじみの深い紅茶といえるでしょう。
出典:depositphotos.com (リプトンの紅茶)
そんなリプトンの創業者トーマス・リプトン(Thomas Lipton、1850-1931)はもともと食料品店を営んでおり、紅茶の事業を始めるのは意外にも?39才頃のこと!
出典:Wikipedia(トーマス・リプトン)
トーマス・リプトンは、1850年にスコットランドのグラスゴーに生まれました。
出典:Wikipedia(グラスゴー、1900年頃)
アイルランドから移ってきた両親は、トーマスも後に手伝うこととなる小さな食料品店を経営していましたが、生活は貧しく、そんな環境からかトーマスは若い頃から経済的な独立心を抱くようになります。
また、両親の祖国であるアイルランドはもちろん、海外に強い関心を持ち、国境をまたぐ実業家になりたいという大きな夢を持った彼は、両親の反対を押し切って13才にして蒸気船のキャビン・ボーイとして船上で働き始め、ついに15才という若さで単身渡米!
ニューヨークで仕事探しを始めた彼ですが、当時のアメリカは南北戦争が終結してまもなくの頃で、役目を終えた復員兵士が多く、なかなか仕事は思うように見つからなかったのだそう…
それでも、人手不足の地域を転々としながら様々な経験を積んだ彼は、最終的に18才でニューヨークの百貨店の食料品部門での仕事を経験した後、19才で帰国します。
故郷に舞い戻り、早速父の店を手伝い始めたトーマスでしたが、若くして海外で様々な経験を積み、アメリカ仕込みの斬新な流通のアイディアや画期的な経営術に長けていた彼は、保守的な父と経営方針が合わなくなり…ついに21才のとき彼自身の店「リプトン・マーケット」を開くことにします。
出典:First Versions (1871年にリプトンがグラスゴーに開いた最初の店)
ユニークな広告宣伝が大当たり
この頃、トーマスの店でも父の店と同じようにハムやベーコン、卵などの食品を取り扱っていましたが、父の店と圧倒的に違ったのは、ユーモアを効かせたユニークな宣伝方法でした。
広告という概念がまだ定着していなかった当時、彼は漫画家に依頼するなどして、店の看板やポスターなどに力を入れ、人目を引くよう工夫を凝らして目立たせ、人々の関心を集めたのです。
また、広告と同じく当時はまだ珍しかったクーポン券を作成して配付し、それを持参した人には店内の商品を安く提供するといった特典を付けて客を引き寄せることにも成功します。
今では当たり前の宣伝方法となっている広告やクーポン券ですが、当時の人々の目には大変新鮮に映ったことでしょう。
さらに、大量の牛乳を用いて作った巨大なチーズの中に金貨を入れた「ジャンボー」も大きな話題を呼びました。
出典:https://merryshrews.blogspot.com/(ジャンボーの広告)
さすがにこれは中の金貨を誤飲する恐れがあるとして、警察から注意を受けることとなったようですが…この斬新すぎるアイディアは今、聞いても驚くほど!
ちなみに、この事件で警察から指摘を受けたトーマスはその後、新聞に注意喚起の広告を載せることとなりますが、これがまた話題を呼んだのだそう!
このようなトーマスの画期的な宣伝に度肝を抜かれた当時の人々が、トーマスの店に詰めかけたのはうなずけますよね。
こうして話題の絶えないトーマスの食料品店は大評判の店として繁盛していきます。
トーマスは、店舗の数が増えれば、それだけ利益も増えると考え、大成功して得た店の利益を次の店舗を展開するための資金にあてました。
これはその後も続いていく彼の経営方針のひとつともいえるやり方で、その結果、店はどんどん増え続け、第一号店の開店からわずか10年で店舗数は20店を超えており、着実に大企業への道を歩んでいくこととなります。
紅茶事業へいざ参入!美味しい紅茶を誰もが楽しめるように
39才頃のこと、トーマスは次なる商材として、当時少しづつブームが浸透しつつあった紅茶の可能性に目をつけます。
しかし、この頃まだ高価であった紅茶は、上流階級の飲み物であり、中流階級や労働者階級の人々には手が届きにくいのが現状…
そこでトーマスは、紅茶の品質を落とすことなく、誰もが手に取りやすい価格で販売できないものかと試行錯誤し始めます。
トーマスには、"生産物を買うときは、問屋からではなく、その生産者から直接買うこと"という母から教わった譲れない経営の考え方がありました。
トーマスはこの教えに従い、紅茶ブームに乗ってトーマスの店を訪ねてくる紅茶の販売業者は断り、自ら紅茶を仕入れることで安定した品質と価格の安さを兼ね備えた紅茶を販売するべく動き始めます。
まず始めに、1890年にお茶の産地スリランカのセイロンを訪れた彼は、その滞在期間中に現地をすっかり気に入り、広大な茶園を買収!
出典:depositphotos.com(スリランカのティー・プランテーション)
さらに、風味や香りが安定したオリジナルブレンドの紅茶を誕生させるため、優れたブレンダ―を雇ったり、丁寧に摘み取った茶葉を新鮮なうちに加工する技術や、重量と銘柄を保証するブランドシールを用いて密閉する包装を導入するなど、あらゆる面で尽力しました。
中でも、お茶の風味が販売地の水質によって変化することを踏まえ、販売する地域ごとにそれぞれの水質に合うよう配慮されて作られていたというこだわりぶりは驚きですよね!
こうした努力の末に完成したリプトンオリジナルの紅茶は、最高の品質であっただけでなく、余計な中間業者を通していないことで、美味しさはそのまま、これまでのお茶より安く売り出すことに成功します。
また、「茶園からそのままティーポットへ」(direct from tea garden to tea pot)という印象的なキャッチコピーで世界規模のキャンペーンを展開!
出典:TeaTime Magazine (1894年のリプトンの広告)
こうして紅茶は、それまでのように上流階級だけの楽しみから、誰からも広く愛される飲み物へと急速に一般の人々まで浸透していきました。
トーマスが持っていた"本当に美味しい紅茶を誰もが気軽に楽しめるようにしたい"という願いを見事に実現したのです。
トーマスがセイロンを視察してからわずか2年後には、事業の拠点をスコットランドからロンドンに移していますが、この頃にはロンドンだけでも300人以上もの従業員を抱え、イギリス国内に150もの店舗数を誇るという一大企業となっていたんだとか!
そんなリプトンの紅茶はヴィクトリア女王より「英国王室御用達」の栄誉を授かり、イギリスはもちろん、海外の王室でも広く飲まれました。
紅茶を幅広い層へ普及させるのに大貢献したトーマスは、次第に食品商社としてよりも紅茶商として有名になっていき、「紅茶王」と呼ばれるように!
ナイトの称号を手にしたサー・トーマス・リプトン
トーマスは、売上げで得た利益をそのまま次の事業計画にまわすという経営方針を貫き、めざましい発展を遂げていきましたが、慈善活動に積極的だったことでも知られています。
例えば、ヴィクトリア女王即位60周年の記念式典で貧しい人々に食事が振る舞われるはずが、その資金が足りないと知ると不足分を寄付したり、貧しい子どもたちに無償で紅茶を配るなどの活動を通し、紅茶の普及以外にも社会に貢献しました。
出典:Wikipedia(ビクトリア女王即位60周年の記念式典、1897年)
そんな功績が認められ、1898年にはヴィクトリア女王よりナイト爵が与えられ、"サー・トーマス・リプトン"と呼ばれるように!
さらに、1902年にはエドワード7世より準男爵位に叙せられました。
また、トーマスはスポーツマンとしても活躍し、子どもの頃、船を見て以来憧れを抱き続けていたというヨットは、1930年に80才という高齢で最後のレースに出場するまで30年以上にわたって続けました。
10代の頃から海の向こうに憧れ、それをきっかけに、国境を越えて世界中で愛される紅茶ブランドを築き上げた彼らしい趣味といえますよね!
世界的に有名なアメリカスカップには5度も挑み、勝利こそ得られなかったものの、その挑戦に多くの人々から惜しみない称賛が送られ、特別賞として「ゴールド・カップ」が贈らました。
出典:The Pneumatic Rolling-Sphere Carrier Delusion(リプトンのアメリカズカップ挑戦の記事)
事業においても私生活においても、挑戦し続けることを忘れず、その豊かな人柄から紅茶と共に人々から愛されたトーマス・リプトンは、1931年にこの世を去ります。
ちなみに、これだけの業績を上げたにもかかわらず、彼は生涯を通じて独身でした。
彼がなぜ独身を貫いたのかは想像するほかありませんが、利益を上げても次の事業計画にまわすという方針の方ですし、それだけ自らの壮大な計画を次々展開することに全生涯をかけたのでしょうか。
また、後継となる自身の子どもを持たずして、現在まで長く愛されるブランドを確立したということにも驚くばかりですね。
彼が作り上げた世界中で愛されるリプトンの紅茶はもちろん、現代でも学ぶべきことの多い彼独特の斬新でユニークなアイディアや画期的な経営術も、彼のかけがえのない遺産といえるでしょう…
おなじみのリプトン紅茶を味わうときは、彼の功績にも思いを馳せたいものですね!