歴代の王がもたらした富と繁栄
「ナポリを見てから死ね (Vedi Napoli e poi muori)」」と言われるほど、一生に一度は訪れたい風光明媚な南イタリアの中心都市ナポリ(Napoli)。
首都ローマからは電車でおよそ1時間、ナポリ中央駅に降り立った瞬間、イタリアの他の街では感じられない熱気と喧噪を感じることでしょう。
出典:depositphotos.com(ナポリとヴェスビオ山)
ローマ、ミラノに次ぐイタリア第3の都市ナポリは、古代ギリシア人の植民都市としての起源をもち(ナポリの名前もギリシア語の「ネアポリス」(=新しい都市)から来ています)、ローマ時代には皇帝の保養地として栄えます。
しかし、5世紀のローマ帝国滅亡後は、ゲルマン人、東ローマ帝国、ノルマン人など支配者が目まぐるしく変わる混乱の時代を迎えます。
その後も、13世紀後半には、フランスのアンジュ―家に支配されるナポリ王国の首都となり繁栄の時代を迎えますが、15世紀中ごろからはスペインのアラゴン家、そして18世紀にはスペインのブルボン家へと支配者が代わっていきます。
ウェッジウッド創業期に影響を与えたポンペイ、その出土品が見られる国立考古学博物館
国立考古学博物館 (Museo Archeologico Nazionale)は、イタリアを代表する博物館のひとつといわれます。
最大の見どころは、1世紀にヴェスビオ火山の噴火により、その火砕流により2000年前の生活をそのままに、地下に埋没したポンペイやヘルクラネウム(現エルコラーノ)遺跡の出土品です。
その中には、みなさん世界史の教科書で1度は見たことがあるはずの、あのアレキサンダー大王のモザイク壁画も含まれるんですよ。
出典:depositphotos.com(アレクサンダー大王のモザイク壁画)
ポンペイ遺跡の発掘は、1748年、ナポリのブルボン王朝のもとで進められ、この考古学的な大発見は、ヨーロッパ人の失われたギリシア・ローマ文明への憧憬をかきたてました。
18世紀後半というと、フランス革命で王制が倒れ、イギリスでは産業革命がおこり、アメリカ独立戦争がおこった激動の時代。
出典:depositphotos.com(ポンペイ)
美術の世界でも、17世紀の荘厳なバロック様式は「大げさ」、18世紀前半の優美・官能的なロココ様式は「軽薄」と嫌われ、シンプルでありながら気品をたたえたギリシャ・ローマの芸術に理想を求め、「新古典主義」として、ヨーロッパ中で大流行となりました。
この影響を大きくうけたのが、イギリス・ウェッジウッド社の創業者であるジョサイア・ウェッジウッド。
それまで東洋陶磁器の模倣をもとに発展してきたヨーロッパ陶磁器の世界に、欧州文明の起源であるギリシア・ローマ文化の要素を取り込むことで新たな流行を産み出し、欧州陶磁器の世界をさらに発展させていくこととなります。
ナポリから、ポンペイまでは車で1時間ほど、エルコラーノまでは30分ほどの距離なので、旅の予定に組み込む方も多いと思いますが、これら遺跡を訪れる前に是非、行っておきたい博物館ですね。
マヨリカ焼きの回廊が見事なサンタ・キアラ修道院
中世からルネサンス期にかけてイタリアを席巻したマヨリカ焼きがお好みなら、是非とも訪れたいのが、サンタ・キアラ修道院(Monastero di Santa Chiara)。
ナポリの街の中心、トレド通りからスパッカ・ナポリに入ってすぐのところにがあります。
この修道院は1310年、当時のナポリ王ロベール・ダンジュー(Roberto d'Angiò)とその妻によって設立されました。
この修道院の中でもひときわ有名なのがマヨリカ焼きで飾られた回廊です。
出典:depositphotos.com(サンタ・キアラ修道院)
“マヨリカの回廊(Chiostro maiolica)“は、1739年ドメニコ・アントニオ・バッカロ(Domenico Antonio Vaccaro)によって全面的に改築されました。
庭園内にはマヨリカ焼きによる植物が描かれた柱や、当時の日々の暮らしが描かれたベンチなどが置かれ、柑橘類の木々と調和しています。
回廊にはバロックの画家によるフランチェスコ会の物語がフレスコで描かれています。
なお、サンタ・キアラ修道院の有るスパッカ・ナポリ地区は、昔ながらのナポリの残る非常に活気のある地域なのですが、実はちょっと治安が悪いエリアでもあります。観光の際はくれぐれも気を付けて下さいね。
スペイン・ブルボン家の王が愛した「幻の磁器」が見られるカポディモンテ美術館
カポディモンテ磁器の歴史
ブルボン家出身の国王の中でもとりわけ人気の高いのが、ナポリ王カルロ7世(Carlo VII、1716-1788)です。
少しわかりにくいのですが、カルロ7世はイタリアでの呼び方で、スペインではスペイン王としてカルロス3世、パルマ公としてはカルロ1世で、シチリア王としてはカルロ5世と様々な称号を持っていました(ここではカルロ7世で統一させていただきます)。
出典: Wikipedia(ナポリ王カルロ7世)
1710年、ザクセン王国(現ドイツ)のドレスデンにマイセンが誕生します。
マイセンはその製法を門外不出としていたにもかかわらず、その後ヨーロッパ各地での磁器製造に大きな影響を与えていきます。
ナポリでは、カルロ7世の妻マリア・アマリア・フォン・ザクセン(Maria Amalia Christina von Sachsen)が、マイセンを運営するザクセン王国の王女であったこともあり、マイセンの協力も得て、1743年ナポリ近郊のカポディモンテ(Capodimonte)の丘に建つ王宮の内に王室窯を開き、磁器の制作を始めます。
出典: Wikipedia (マリア・アマリア・フォン・ザクセン)
ただし、南イタリアでは、マイセンのような「硬質磁器」の製造に必要なカオリンが入手できなかったため、カポディモンテ磁器は、数種の長石、粘土を混ぜ、そこに乳白色の粉を混ぜた土を使った独特な磁器「軟質磁器」を製造することとなります。
しかし、1743年に創設されたこの窯は、1759年にナポリ王カルロ7世がスペイン王となった際に、これまで制作した磁器を全てスペインへ持ち帰り、窯もマドリード郊外のブエン・レティーロ(Buen Retiro)に移してしまったため、わずか16年の短命に終わります。
この王室窯で作られた磁器には青いブルボン家のユリの紋章が描かれていますが、その製造期間が短期間であったがゆえに、現存するカポディモンテ磁器は極めて稀で、「幻の磁器」とも呼ばれ、高値で取引されることから、これまでに多くの贋作が作られてきたとも言われます。
さて、この閉鎖された王室窯ですが、1773年カルロ7世の息子フェルディナンド4世(Ferdinando IV)がイタリアやドイツの職人を集め、ナポリの南の街ポルティチ(Portici)に再建します。
この王室窯で1787年までに作られた磁器には、カルロ7世の時代のものと区別するために“FRM”の文字と王冠が入っています。
出典:Wikipedia(フェルディナンド4世)
その後は、ドメニコ・ヴェントゥーリ(Domenico Venturi)が窯を指揮していた1780年から1800年、窯は最盛期を迎え、これ以降に作られた磁器には“N”の文字と王冠が描かれています。
最終的には、同じナポリの窯であったジノリ社(現リチャード・ジノリ)にすべての型・権利が移ったとされており、リチャード・ジノリではカポディモンテという名前で、レリーフ(浮き彫り)が特徴の作品を生み出していきます。
リチャード・ジノリのカポディモンテには、“N”の文字と王冠に加え、「Ginori」のロゴも一緒にデザインされています。
出典:appletreedeals.com(ジノリ・カポディモンテ)
カポディモンテ美術館
なお、カルロ7世が王室窯を開いたカポディモンテには現在、美術館が建っており、そこにはティツィアーノ・ヴェチェッリオ(Tiziano Vecellio)やエル・グレコ(El Greco)などの絵画のほか、カルロ7世が継承したファルネーゼ家の膨大な美術品のコレクションが収蔵されています。
出典:カポディモンテ美術館公式サイト(宴会用サロン)
その2階に2部屋の磁器のギャラリー(Galleria delle Porcellane)があり、3000点以上の磁器のコレクションの中から1室にはカポディモンテ磁器が、もう1室にはヨーロッパの著名な磁器が展示されています。
中でも特に素晴らしいのは、ナポリやその近郊の風景が描かれた“ガチョウの食器セット”( Servizio dell'Oca)と呼ばれる一式です。
幻とも呼ばれる磁器。ナポリへ訪れる機会があれば、是非とも実際に目にしておきたいものです。
出典:カポディモンテ美術館公式サイト(磁器の間)
ピッツァもパスタもエスプレッソも、みんなナポリ発祥!?
ところで、ナポリの魅力は、陶磁器だけではありません。
私たちが「イタリア」と聞いて真っ先に思い浮かべるパスタ、ピッツァ、エスプレッソは全て、ナポリが発祥と言われてるんですよ。
パスタ
パスタは、16世紀半ばに、ナポリで飢饉に備えるための保存食として発明されたもの。
その料理方はシンプルで、茹でたパスタにオリーブオイルと少しのチーズをかけて、手でつかみ取って頭上にかかげ、下からすするようにして食べられていたそうです
想像するだけでも、かなり野性的な食べ方ですね。口のまわりと洋服がべちゃべちゃになりそう。
そんなパスタの位置づけが変わったのは、1770年代、庶民派のナポリ王フェルディナンド4世が宮廷料理としてスパゲティを提供することを命じたことによります。
この当時のお妃は、名門ハプスブルグ家の出身で、マリア・テレジアの娘、マリー・アントワネットの姉であるマリア・カロリーナでした。
当然、こんな野性的な食べ方が受入れらるはずもなく、上品にスパゲティを食べる方法として、それまで料理を取り分ける道具であったフォークを改良して、現在のような4本歯のフォークが発明されました。
出典:Wikipedia(マリア・カロリーナ)
ピッツア
また、ピッツァも、ピタパンやナンのような薄いパンにオリーブオイルを塗っただけのシンプルなもので、貧しい人たちの料理でした。
ところが、1898年、イタリア王のウンベルト1世(Umberto I)とマルゲリータ王妃(Margherita Maria Teresa Giovanna di Savoia-Genova)がヴァカンスでナポリを訪れた際、王妃は「ナポリの庶民が最も愛しているものを食べてみたい」と言いました。
出典:Wikipedia(マルゲリータ王妃)
さすがに庶民が普段食べていた簡素なピッツアを出すことに躊躇した家臣は、王妃のために特別のピッツァを作るようにピッツア職人に命じました。
そこで生まれたのが、私たちもよく知っているバジリコ、モッツァレラチーズ、トマトソースの乗ったピッツァでした。
出典:Pixabay(マルゲリータ)
イタリア国旗と同じ3色、緑のバジリコ、白いチーズ、赤いトマトで出来たピッツァを王妃は非常に気に入り、このピッツァに「マルゲリータ」という名前を付けたのが「ピッツァ・マルゲリータ」の始まりと言われています。
このピッツァ・マルゲリータを考案したピッツア職人のお店が現在の“ピッツェリア・ブランディ (Pizzeria Brandi)”で、現在も王宮のそばで営業を続けています。
出典:www.flickr.com(Pizzeria Brandi)
エスプレッソ
エスプレッソもナポリ発祥と言われており、ピッツェリア・ブランディと目と鼻の先には、老舗のカフェ“ガンブリヌス(Gambrinus)”があります。
1860年創業と言われる“ガンブリヌス”は、数多くの教養人や近くにあるサン・カルロ(San Carlo)劇場に出演していた音楽家たちの社交場として長年伝統を守って来ました。
もちろんコーヒーはオリジナルブレンドで、ナポリ特有の苦みの強い深い味わい。
この苦みの効いたコーヒーにたっぷりお砂糖を入れ、2,3口で一気に飲むのがナポリ流のかっこいいコーヒーの飲み方です。
そして人によってはカップの下に残ったお砂糖もスプーンできれいにすくって口に運んでいます。
またナポリではコーヒーにお水が付いてきます。このお水、コーヒーを飲んだ後にお口直しに飲んでは、地元のナポリっ子に笑われてしまいます。
実はこのお水はコーヒーを飲む前に口をきれいにするもの。これでナポリの人たちがどれだけコーヒーを愛しているかが分かりますよね。
それからこれはナポリだけの独特な伝統なのですが、多くのお店にカフェ・ソスペーゾ(caffè sospeso)と呼ばれる「おごり」のシステムが有ります。
これはお金のある人が貧しい人もコーヒーが飲めるように、自分のコーヒー代ともう1杯分余計に払っておき、貧しい人がコーヒーを飲みたい時にそれを当ててもらうという“助け合い”の制度です。
もちろん“ガンブリヌス”でも未だにこれが生きています。
他にも”ガンブリヌス” の近くに60種類以上のコーヒーのレパートリーが有るという“Il Vero Bar del Professore” (イル・ヴェロ バール・デル・プロフェッソーレ)というお店が有ります。
ここにはナポリでしか飲むことが出来ないノッチョラート(Nocciolato)というヘーゼルナッツクリームが入ったコーヒーがあります。
ヘーゼルナッツクリームの甘さとエスプレッソコーヒーの苦みが混ざり合って、絶妙なおいしさですよ。