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ジョージ4世|「スポード」にロイヤル・ワラントの称号を与えた、悪名高いイギリス国王
ジョージ4世はなぜそんなに悪名高い? ジョージ4世(1762-1830)は1762年、国王ジョージ3世とその妻シャーロットの長男として生まれました。  出典:Wikipedia(ジョージ4世) 若い頃から、ハンサムで教養も深く、「イングランド一のジェントルマン」と呼ばれたこともあるほど魅力的...

マリア・テレジア|オーストリアを近代化し、ウィーンをカフェの街にした啓蒙専制君主

マリア・テレジアの父カール6世には男の子の世継ぎがいなかったため、当時、女性の世襲は認められていなかったもかかわらず半ば強引に、23歳のマリア・テレジアにハプスブルグ家(神聖ローマ帝国)の女君主としての地位を引き継がせることになります。

正確には、「神聖ローマ皇帝」という称号は夫のフランツ1世が持つことになったものの、政治の実権は完全にマリア・テレジアが持っていました。


チャールズ・グレイ|紅茶アール・グレイの名前は元イギリス首相の名前から?

チャールズ・グレイは、政治活動を始めた当初、あまり人脈がありませんでした。自分の売り出しにも悩んでいた時に、社交界で一人の女性と知り合います。

それは、当時社交界の華として大変な人気を誇っていた、デヴォンシャー侯爵夫人(ジョージアナ・キャヴェンディッシュ)でした。

デヴォンシャー夫人の後押しもあって、チャールズ・グレイは自分の名を広めることに成功します。しかし、デヴォンシャー夫人との間は、ただの政治仲間ではすみませんでした。


ウィリアム・フォートナム|召使いの副業から始まった、イギリス王室御用達の店「フォートナム&メイソン」

ウィリアム・フォートナムは、1707年に、「フォートナム&メイソン」を設立した人物として有名ですが、その出自に関しては謎が多く、資料も大変少ない人物です。

ウィリアム・フォートナムの名前が歴史に登場するのは、名誉革命後のスチュアート朝最後の女王となった、アン女王のフットマン(footman)として王室で働いていた時のことです。

ちなみに、footmanとは、王族・貴族の馬車の車輪が、ぬかるみにはまったり、木の根に乗り上げたりしないよう、徒歩で馬車のまわりをついていく、要するに下級召使いのことです。


シャーロット王妃|芸術と自然をこよなく愛し、「ウェッジウッド」を見出したドイツ出身の王妃

母と元家庭教師(母の愛人?)の下で、従順な国王として人形扱いされていたジョージ3世ですが、このふたりの意見を、一度だけ突っぱねたことがあったのです。

それは結婚相手の選定。

しかし、ビュート伯や母親の目があり、表だって結婚相手探しは出来ませんでした。そこで、最も信頼していたグレイム大佐に花嫁探しを任せます。

そして、グレイム大佐が連れてきたのが、シャーロット・オブ・メックレンブルク=ストレリッツ(1744-1818)、後のシャーロット王妃です。


ジョサイア・ウェッジウッド|「イギリス陶芸の父」と呼ばれた産業革命の申し子

世界に名立たる陶磁器ブランド「ウェッジウッド」社を立ち上げたジョサイア・ウェッジウッド(1730-1795)は、イングランドのスタフォードシャー、その中でも「イギリスの陶器産業の里」と呼ばれるストーク・オン・トレント(Stork-on-Trent)の、代々陶器職人を務める陶芸一家に生まれ育ちました。

 

ジョサイアを並みの陶芸家とは異なる存在とした出来事が、11歳の時に起こりました。


デュ・バリー夫人|時代の波に翻弄されたフランス国王ルイ15世の公妾

デュ・バリー夫人(1743-1793)は、それまでフランス国王ルイ15世の公妾として社交界の華と称えられたポンパドゥール夫人が42歳の若さで亡くなった後、公妾として取り立てられた美女です。

「公妾って、要するに愛人のことでしょう?どうせ見た目だけでしょう。なんか頭悪そう。」、などと侮ることなかれ。


エカテリーナ2世|ロシアの女帝は、世界最大の美術品コレクター?!

この当時のロシア帝国というと、西ヨーロッパ諸国と比較して「遅れた国」と認識されていました。

今の、「強い国、ロシア」というイメージからは程遠い、田舎の国だったんですね。

では、いつからロシアが強い国の仲間入りをしたのかというと、その基盤はエカテリーナ2世の統治下で築かれていったのです。


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