複雑な綱引きの中で生まれた女王
メアリ2世(1662-1694)は、夫と共に即位し、ふたりで共同統治を行ったことで知られるイングランド女王です。
イギリスの歴史上、夫婦が平等に国王と女王として「共同統治」を行ったのは、この夫ウィリアム3世と妻メアリ2世の時代のみです。
出典:Wikipedia(メアリ2世)
また、メアリ2世の伯父であるチャールズ2世は前々国王、父であるジェームズ2世は前国王、3才年下の実の妹はその後のアン女王、と家系だけみれば非の打ちどころのない華麗なる一族です。
しかし、彼女の即位までの経緯は、いろいろな利害関係と思惑がからみあった綱引きの結果であり、統治後も気苦労の絶えない人生であったようです。
高貴な生まれの人が、必ずしも幸な人生とも限らないようですね。
旧教(カトリック)と新教(プロテスタント)と清教徒(ピューリタン)
ヨーロッパ中でキリスト教徒が、旧教(カトリック)と新教(プロテスタント)に分かれて争った宗教改革ですが、イギリスでは16世紀のヘンリ8世の離婚問題に端を発します。
その後、エリザベス1世の時代には、イギリスの教会はローマ・カトリック教会(カトリック)から分離し、イギリス国教会(プロテスタント)として独立しました。
ただし、これは聖職者の首長が、ローマ教皇から、イギリス国王に替わっただけで、キリスト教の教義そのものは似かよったものでした。
17世紀になると、イギリス国教会(プロテスタント)の、さらに改革派が出てきて、清教徒(ピューリタン)として、クロムウェルを筆頭とする軍隊・議会が、国王チャールズ1世を処刑し、国王の独裁に歯止めをかけ、ピューリタン革命(1649年)と言われます。
出典:Wikipedia(クロムウェル)
しかし、今度は、このクロムウェルが独裁者化。反対勢力を弾圧し、自身は「護国卿」という地位について、国王のように振る舞います。
しかし、彼の死後、後を継いだ息子はイギリスから追い出され、新たに国王として招かれるのが、フランスに亡命していたチャールズ1世の息子チャールズ2世(メアリの伯父)。
出典:Wikipedia(チャールズ2世)
このチャールズ2世は、イギリスに戻ってくると父親の恨みを晴らします。
既に死んでいるクロムウェルの墓を暴き、死体を反逆者として処刑して首をさらす。そして、ピューリタンを迫害してカトリックを擁護しはじめます。
弟のジェームズ2世(メアリ2世のお父さん)が後を継ぐと、この人はカトリック信者であることを堂々と公言します。
出典:Wikipedia(ジェームズ2世)
しかしながら、このジェームズ2世と彼の最初の妻の間に生まれたメアリとその妹アンは、当時、イングランド国民が旧教(カトリック)を嫌っていた国民感情の配慮して、新教徒(プロテスタント)として育てられました。
イギリスとオランダを繋ぐ政略結婚
メアリの母国イギリスと、夫ウィリアムの母国オランダの関係も複雑です。
16世紀のイギリスは、当時スペインからの独立をもくろんでいたオランダに対して援助をします。
そして、オランダは、スペイン・フランス・イギリス等が他国との戦争や内乱で手一杯になっているのを尻目に、世界の貿易のほとんどを独占するようになります。
17世紀になって、ようやく国力があがってきたイギリスは、武力で植民地を増やしていき、自国植民地からオランダを締め出します。
当時の船は小さく、出港地と目的地をダイレクトに航海することができないので、途中にいくつもの寄港地を設定せざるを得ず、イギリスの植民地に寄港できなければ長距離の貿易ができません。
結果、1652~1674にかけて3回にわたって英蘭戦争が起こります。
その後、1677年、メアリは、代々オランダ総督(国王のようなもの)を世襲していたオラニエ家のウィレム3世(英語読みではウィリアム3世)に嫁ぐことになります。
出典:Wikipedia(ウィリアム3世)
まさに、両国間が冷えきっている中での政略結婚でした。
16才のメアリは、ロンドンを離れ、オランダ・ハーグの宮廷で暮らすこととなりますが、ドーヴァーを渡る最中、船内で不安から泣き明かしたという逸話も残っています。
父と娘、妻と夫、そして、国王と議会
さてそんなメアリ2世の父親であるジェームス2世は、国民感情を無視してカトリックを擁護しただけでなく、勝手に軍隊を組織したり、議会を無視した政策運営を行ったため、困り果てた議会は、ジェームス2世を退位させ、オランダに嫁いでいたメアリ2世を女王として迎えようとします。
議会としては、メアリ2世の単独女王で、ウィリアム3世は単なる女王の配偶者となることを望んでいましたが、ウィリアム3世は自分にも君主権が欲しいとそれを拒否。
メアリも自身も夫を立て、同等の君主権を夫にも認めない限り、女王にはならない、と議会に対して条件を出し、議会はこの条件を受入れて、二人の国王に迎えることとなります。
一方、議会のほうでも、二人の国王に対して条件を付けました。国王といえども議会の承認なしに、法律の制定や廃止、また課税などをしてはいけないというもので、「権利の章典」と呼ばれます。
出典:Wikipedia(権利の章典)
これだけの利害関係が複雑に絡みあっていたものの、この国王の交代劇では、一滴の血も流されておらず、このことから「名誉革命」(1688)と呼ばれるようになりました。
それまの内戦で、散々、血なまぐさい争いを見てきたイギリス人にとって、これを成し遂げたメアリ2世の人気が高かったこともうなずけるというものですね。
メアリ2世とウィリアム3世の夫婦仲
一般的に「メアリとウィリアム」と言えば、メアリ2世とウィリアム3世を指すと言われるほど、二人の共同統治は有名です。
出典:Wikipedia(ウィリアム3世とメアリ2世)
しかし、そんなメアリとウィリアムは夫婦仲が悪かった、、、ということでもまた有名。
ウィリアムはメアリより10cm以上も背が低く、痩せて貧弱な上に暗い性格であったと伝わっていますが、夫婦仲を悪くした原因はウィリアムが同性愛者であり、また男性女性を問わず複数の愛人をもっていたということにあるようです。
生まれ育った地を離れ異国オランダへ嫁いできたのに、自分を愛してくれず、女性の愛人どころか、男性の愛人までもつとは!
複雑な心境のメアリがウィリアムに歩み寄れないのは当然といえるかもしれません。
また、二人の国王となってからも、もともと控えめで穏やかな性格であり、国民から愛される君主であったメアリとは対照的に、外国人であったこともあり、ウィリアムはなかなか国民からの支持を得ることができずにいました。
そこで、ウィリアムは当時敵対していたフランスとの戦争に専念することにしましたが、それゆえ国を離れがちで、国内の政治はメアリ任せにせざるを得なかったといいますが、これがさらに国民の不満をあおる結果となってしまいまいました。
一方、メアリはそんなウィリアムと国民の間に立つ存在としても優秀であったそうで、メアリが常に夫をたてたことから、二人の統治は上手く運んだといわれています。
しかし、常に誰かの間に挟まれて、気を遣ってばかりで、なんだかメアリが気の毒な気がしますね。
そんな二人は子どもに恵まれず、1694年にメアリが天然痘で亡くなると、王位はウィリアム単独となった後、1702年にメアリの妹であるアンが女王となって引き継ぐことになります。
夫婦共通の趣味とシノワズリ(中国趣味)
ちなみに、そんなすれ違いの二人の共通点は紅茶好きであったことでした。
宮廷で茶会を催していたことから上流階級の間で紅茶を飲む習慣が広がるのに貢献したといい、砂糖を使うメレンゲや果物の砂糖漬けが茶会で出されるようになったのもこの頃といわれますが、これらはウィリアム3世の大好物であったという逸話があります。
幼くしてオランダへ嫁ぎ、ハーグの宮廷で暮らすうち、オランダ式の作法を完璧に身に着けていったというメアリは、洗練されたセンスで上流階級の人々を魅了したといい、英国に戻ると前述した紅茶の習慣以外にも、彼女の趣味であった磁器の収集を流行させました。
中でも彼女がコレクションしていたこととで有名な、当時珍しかった中国を思わせる文様の磁器は「シノワズリ」(Chinoiserie。フランス語で中国趣味)と呼ばれていますす。
17世紀は、オランダの東インド会社を通じて東洋の磁器がヨーロッパに渡り、王侯貴族の間で流行したようですから、こうした背景もあったのでしょう。
メアリがオランダから持ち帰り、ハンプトンコート宮殿、ケンジントン宮殿の各部屋を飾った東洋風の磁器は大変注目を集めることとなり、彼女のようにシノワズリをコレクションすることが上流階級の人々の間で流行することとなりました。
出典:depositphotos.com(ハンプトンコート宮殿)
出典:depositphotos.com(ケンジントン宮殿)
ちなみに、シノワズリは「中国趣味」のほか「東洋趣味」と呼ばれることもあります。
この時代に人気を集めた磁器は中国に限らず日本やインド、アラビアといった地域を思わせるものも含まれており、日本からは有田焼(伊万里焼)もシノワズリに影響を与えたといいます。
出典:Victoria and Albert Museum(デルフト焼のチューリップ瓶)
出典:Victoria and Albert Museum(有田焼のハンプトンコート・ジャー)
シノワズリの流行に伴って有田焼も当時ヨーロッパで人気を集め、メアリ2世の宮殿をはじめ、多くの宮殿や大邸宅に見ることができるようです。
ちなみに、シノワズリは実際に東洋から来たものというよりは、ヨーロッパの人々が異国の風景や人物をイメージしたものを指すという趣があるようです。
有田焼によく似た図柄がヨーロッパの陶磁器に描かれていることからもその人気ぶりをうかがうことができます。