後に女王となる姉妹!アンと姉メアリ
アン女王(1665-1714)は、後に国王となるジェームズ2世の次女として生まれました。
アンの姉は、後に女王となるメアリ2世で、姉のメアリは控えめで大人しい性格であったのに対し、アンは乗馬やスポーツを好む社交的な人柄であったようです。
1683年にアンはデンマーク・ノルウェー国王の次男であったヨウエンと結婚し、夫婦仲は非常に良かったと言われています。
出典:Wikipedia(ヨウエン)
そんなアンの人生の転機ともいえる出来事が、1688年におきた名誉革命。
議会との対立により、最終的には、父であるジェームズ2世がイギリスから追放され、替わって姉夫婦であるウィリアム3世とメアリ2世が、国王と女王として共同即位することとなった事件です。
この際、アンは、父と姉夫婦の間に板挟みの立場。
反乱分子と接触しないよう父親に軟禁されていたところ、アンの幼馴染であり従者であったサラ・ジェニングスと、その夫ジョン・チャーチルの手引きによって、姉夫婦のもとに脱出します。
出典:Wikipedia(サラ・ジェニングス)
出典:Wikipedia(ジョン・チャーチル)
ちなみに、このジョン・チャーチル、もともと父親ジェームズ2世の寵臣でしたが、最後には姉夫婦ウィリアム3世・メアリ2世側についており、時流の見極めが上手ですね。
この方は、その後、イギリスの名門貴族マールバラ公爵家を1代で興し、子孫としては、後のイギリス首相ウィンストン・チャーチルやダイアナ皇太子妃が知られています。
いずれにしても、姉夫婦側に投降したアンは、姉夫婦に子どもがいなかったこともあり、次の王位継承者としてホワイトホール宮殿で暮らすこととなり、アンの脱出に協力したサラ・ジェニングス、ジョン・チャーチル夫婦と特別な絆を持つこととなります(特に、アンとサラは同性愛がささやかれるほど大の仲良しであったといいます)。
姉夫婦との断絶
しかし、何事も過ぎたるは及ばざるがごとし、この夫婦の宮廷での発言権が強まるにつれ、メアリ夫妻からはだんだん疎ましく思われるようになっていき、ついにメアリはアンに対してサラを追い出すよう迫りますが、アンはこれを拒絶。
さらに、ジョン・チャーチルが元国王のジェームズ2世と内密に通信しているという疑惑が持ち上がり、ロンドン塔に投獄されたことをめぐって、アンはメアリ夫妻に激しく反発します。
これをきっかけに姉夫婦と絶交状態になったアンはロンドン郊外に引っ越し、宮廷からは遠のくことになってしまいました。
メアリ2世が亡くなった後、アンはウィリアム3世と和解し 、1702年のウィリアム3世亡き後に即位して王位を引き継ぐことになりますが、メアリとは不仲のまま。
アンとメアリは、それぞれ女王となる実の姉妹ですが、何とも複雑な関係に終わった切ない姉妹でもありました。
そして、こんなにまでしてして守ったサラ・ジェニングスとの仲も、スペイン継承戦争(1701-1714)をめぐって意見が対立(アンは和平派、サラは夫ジョンが軍の最高司令官であったこともあり推進派)し、1710年にアンはついにサラを宮廷から追放してしまいます。
こちらも、なんとも後味の悪い結末ですね。
アン女王の異名"ブランディー・ナン"
お酒好きであり、中でもブランデーを好んだアン女王は"ブランディー・ナン"(Brandy Nan)と呼ばれていたことでも有名です。
晩年は肥満が進み、ついに歩くこともできなくなったアンは、宮廷内でも車いす生活を余儀なくされていましたが、これはブランデーを飲みすぎたことが原因といわれており、亡くなったときには正方形に近い棺を用意しなくてはならなかったと伝わるほど。
出典:Wikipedia(アン女王)
しかし、その背景にはアンが長年悩まされた不幸が深く関係していました。
アンは夫のヨウエン(イギリス風の発音ではジョージ)と仲が良かったと伝えられており、仲睦まじくお茶を飲む場面を描いた絵画も残っているというほどですが、アンは何度も妊娠するものの、流産や死産、あるいは幼くして病死 してしまうといったように、不幸にも子どもには恵まれません。
毎年のように妊娠を繰り返し、双子を含む18人の子どもがいたはずでしたが、誰一人健康に育つことなく亡くなってしまい、子どもを次々と失う深い悲しみからアンは酒に溺れるようになっていったといいます。
姉のメアリ夫妻に子どもがなく、自分が跡を継いだという背景も考えると、アンの世継ぎを生むプレッシャーは相当なものであったに違いありません。
また、1708年に夫が亡くなったときには深い悲しみに暮れたというアン。"ブランディー・ナン"という異名の裏には、悲しみからお酒に依存し、歩行も困難なほどまで肥満が進んだアン女王の姿があったのです。
アン女王は、1707年にイングランドとスコットランドが正式に統合され誕生したグレートブリテン王国の最初の君主となる一方で、子供に恵まれず、1371年から続くスコットランドを起源とするスチュアート朝の最後の女王ともなりました。
「クイーン・アン・スタイル」
美食家でありお酒好きで有名なアン女王は、大の紅茶好きでも知られています。
お茶会を開いてお茶を味わう特別な場面だけでなく、普段から朝食の席でもお茶を気軽に飲み、砂糖やミルクをたっぷり入れて楽しんでいたそう。
当時高価であった茶や砂糖を惜しみなく使えることが富や権力の証でもあったようですが、彼女の朝食でもお茶を飲むという習慣は、これ以降、上流階級の人々の間にも広がっていったといいますから、現在のイングリッシュブレックファーストやアフタヌーンティーを始めたのはアン女王だともいわれています。
また、アン女王の好んだ洋ナシをモチーフにしたという銀製のティーポットや、美しい装飾が施されたティーテーブル付きの茶室を作らせるなど、「クイーン・アン・スタイル」と呼ばれるお茶の様式を確立していきました。
ちなみに、ケンジントン宮殿にはアン女王のために建てられたという温室がありますが、現在は「オランジェリー(The Orangery)」というティールームになっていることも有名です。
天井が高く白を基調とした美しい内装で、かつてはオレンジといった果実が中心の温室であったことからこの名がついたようです。
出典:flickr.com(オランジェリー、ケンジントン宮殿)
さらに、王室御用達で有名なフォートナム&メイソンの紅茶「クイーン・アン」は、設立当時の女王であったアンのことで、創業200周年を記念して発売されました。
こうしたことからも、アン女王が紅茶とゆかりの深い人物であったことを今日でもうかがい知ることができるでしょう。
参考資料
英国ティーカップの歴史(Cha Tea 紅茶教室、2012)