「兵隊王」を父に持ったがゆえ…辛く過酷な王太子時代
現代はもちろん、存命中から大王と呼ばれその卓越した君主としての手腕と偉業を称えられてきたというプロイセン王フリードリヒ2世(Friedrich II.、1712-1786)。
出典:Wikipedia(フリードリヒ2世)
そんな彼は、1712年にプロイセン王のフリードリヒ・ヴィルヘルム1世とその妃ゾフィー・ドロテアの間に生まれます。
父王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世は暴力的ともいわれるほど軍人気質で「兵隊王」と呼ばれた人物。
出典:Wikipedia(フリードリヒ・ヴィルヘルム1世)
一方、彼の妃ゾフィーは後のイギリス国王ジョージ1世を父に、ジョージ2世を兄にもつ宮廷人で、学芸に造詣の深い人物でありました。
出典:Wikipedia(ゾフィー・ドロテア)
そんな真逆ともいえる両親はお互いに気が合わず、当然ながら教育方針も正反対!
少年時代のフリードリヒは父とは違い、母のように哲学や音楽、芸術を愛する穏やかな性格であったようですが、自分のように育てたい父王はそれが気に食わず、フリードリヒは虐待ともいえる厳しい教育を強いられて育つことになります。
出典:Wikipedia(少年時代のフリードリヒ2世)
彼は音楽、とりわけフルートの演奏に夢中になるも、演奏はおろかオペラなどの観劇さえ禁止される始末…そんな状況に耐えかねたフリードリヒは18才になる頃、母の故郷であるイギリスを目指して脱走を図ります。
ところがこれはすぐに父王にばれてしまい、早々に連れ戻されたばかりか、手引きしてくれた将校の親友カッテが目前で処刑されることとなり、フリードリヒはその処刑を目撃するよう強いられた挙句に失神するという衝撃的な罰を受けます。
出典:Wikipedia(親友カッテ)
当時のヨーロッパは不安定な情勢であったこともあり、自身の暗殺といった陰謀の兆候に過敏になっていた父王は、この逃亡計画も何らかの罠と疑ってかかり、フリードリヒの廃位や処刑すら考えたとされますが、神聖ローマ皇帝カール6世が父子の間に入ったこともあって何とか思いとどまり…フリードリヒは無事に釈放されることとなりました。
出典:Wikipedia(神聖ローマ皇帝カール6世)
その後は、父王より領土の仕事を任されるようにもなり、フリードリヒは父王に倣って未来のプロイセン王としての道を歩むことになってゆくものの、父王への反抗心だけはその後も彼の生涯に暗い影を落とし続けることになります。
父王から強いられた結婚に猛反発!?それとも女嫌い?理由もなく遠ざけられる王妃
フリードリヒは1733年、父王らが決めた縁談により、ブラウンシュヴァイク=ベーヴェルン家よりエリザベート・クリスティーネを妃に迎えます。
ちなみに、彼女の兄はフュルステンベルク磁器工房を興したカール1世、妹はロイヤルコペンハーゲンを創設したユリアーネ・マリー王太后です。
出典:Wikipedia(エリザベート・クリスティーネ)
また、彼女にとって、神聖ローマ皇帝カール6世の妻で女帝マリア・テレジアの母である同名のエリザベート・クリスティーネは伯母にあたります。
そのため、この結婚によりオーストリアにとってゆかりのある同家とプロイセンが結ばれれば、この先プロイセンを扱いやすくなるというオーストリア側の算段も背景にあったようです。
エリザベート・クリスティーネは美しい容姿に加え、敬虔で善良、控えめな性格の持ち主で、しかもフリードリヒを熱烈に愛していたとされ、まさに非の打ち所のない伴侶となるはずでしたが…
フリードリヒは父王より強いられた結婚が気に入らず、一方的に彼女を拒絶!
別居するだけでなく、夏の離宮サンスーシ宮殿には彼女の立ち入りすら禁止し、早々に妻を彼の人生からシャットアウトしてしまいます。
出典:depositphotos.com(サンスーシ宮殿)
王太子時代には一時期、良好な関係の頃もあったとされ、父王の死去に伴い共に王と王妃として即位を果たすも、プロイセン王となってからのフリードリヒは妃を完全に無視!
単なる文通相手程度の間柄とみなすようになってしまうのです。
長い戦争が終わり、久しぶりに再会した妃にフリードリヒがかけた言葉は…「マダムは少しお太りになったようだ。」の一言のみだったという衝撃の逸話も有名です。
一方、エリザベート・クリスティーネの方はというと、そんな境遇も静かに受け入れるだけでなく、夫から愛されるためにと高い教養を身につける努力を惜しまず、それが叶わなくても生涯夫を敬愛し続け、彼が亡くなった際には人一倍悲しんでいたという逸話も残ります。
父王が決めた不本意な結婚への反発心!?からだったのか、単に女嫌いだったのか、彼女の何がそこまでフリードリヒの気に障ったのか…思わぬとばっちりを受けることとなってしまったエリザベート・クリスティーネが気の毒でなりませんね。
ちなみに、エリザベート・クリスティーネのブラウンシュヴァイク=ベーヴェルン家とは、彼女とフリードリヒ夫妻のほか、それぞれの兄弟姉妹が2組結婚しています。
そして、そのうちの1組、フリードリヒの弟とエリザベート・クリスティーネの妹の間に生まれた息子は後のプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世。当然ながら子どものいないフリードリヒ2世の後継者となります。
出典:Wikipedia(フリードリヒ・ヴィルヘルム2世)
長年の宿敵は女帝マリア・テレジア!女性の敵が多いのは女嫌いゆえ?!
フリードリヒ2世とゆかりの深いもう一人の女性、それはオーストリア女帝のマリア・テレジアです。
出典:Wikipedia(マリア・テレジア)
彼女とは縁談も持ち上がっていたのだとか!二人の宗教上の違いから実現には至らなかったとされますがが、もしも実現していたら歴史は大きく変わっていたかもしれませんね。
1740年、フリードリヒ大王がプロイセン王として即位したその年、神聖ローマ皇帝カール6世が亡くなり、彼の長女マリア・テレジアが家督を相続することになるのをきっかけにオーストリア継承戦争が勃発!
出典:Wikipedia(オーストリア継承戦争)
フリードリヒ大王は当時のオーストリア領シュレジエンを奪って領土拡大を果たしますが、このシュレジエンをめぐってはその後の七年戦争まで長年に渡りマリア・テレジアと熾烈な闘いを繰り広げました。
マリア・テレジアはフリードリヒ大王を“シュレジエン泥棒“呼ばわりして毛嫌いし、この地を奪還するべくありとあらゆる策をめぐらせます。
彼女は、当時のフランスで権力を握っていたルイ15世の公妾ポンパドゥール夫人、ロシアの女帝エリザヴェータと手を組むことに成功!
出典:Wikipedia(ポンパドゥール夫人)
出典:Wikipedia(女帝エリザヴェータ)
3人の女性を中心にオーストリア、フランス、ロシア、という強力な包囲網が実現したうえ、ザクセンなどのドイツ領邦やスウェーデンなど多くの国々を味方にしてプロイセンに対抗しました。
中でも「外交革命」と呼ばれるオーストリアとその長年の宿敵フランスとの連携は驚くべき政策であったといい、その一環としてマリア・テレジアは自身の末娘をフランスへ嫁がせます。
その娘こそ、日本でも大変有名なマリー・アントワネット。大切な末娘を差し出すほど…マリア・テレジアの本気度が伺えますね。
出典:Wikipedia(子供時代のマリー・アントワネット)
ところで、女嫌い?と噂されるフリードリヒ大王は公の場で女性蔑視発言を繰り広げたことからマリア・テレジア以外にも才気ある女性たちから嫌われていたようで…
先述のポンパドゥール夫人やエリザヴェータもフリードリヒ大王を個人的に嫌っていたからこそマリア・テレジアの味方についたともいわれています。
父王ゆずり?軍事力強化で厳しい戦争を戦い抜きプロイセンを強国へ!
マリア・テレジアとのシュレジエンをめぐる熾烈な闘いは、最初はフリードリヒ大王率いるプロイセンが優勢であったものの、終盤にはマリア・テレジアの戦略が功を奏し、プロイセンはヨーロッパの強国に包囲され、孤立状態となってしまいます。
頼れるのは母の故郷でもあるイギリスのわずかな援助のみ…それもとうとう打ち切られ、死を覚悟するほど追い詰められたというフリードリヒ大王。
そんなとき、ロシアでエリザヴェータ女帝が亡くなりますが、その後継者となったピョートル3世がフリードリヒ大王の崇拝者であったという幸運?!に恵まれ、形勢は逆転!最終的にフリードリヒ大王はシュレジエンを勝ち取ることに成功したのでした。
出典:Wikipedia(ピョートル3世)
ちなみに、マリア・テレジアの長男で後継者となるヨーゼフ2世もフリードリヒ大王を崇拝し、母を悲しませていたといいますから…敵味方にかかわらず支持者がいるというのもフリードリヒ大王の強み?!と言えそうです。
出典:Wikipedia(ヨーゼフ2世)
ところで、シュレジエンは主に現在のポーランド南西部、チェコの北東部にあたる地域で、人口が多く、この地を獲得することはプロイセンの領土拡大に大きな意味がありました。
また、軍事力の強化に力を入れ、司令官として卓越した手腕を発揮し、オーストリアとのシュレジエンをめぐる闘いを度々制してみせたフリードリヒ大王は、弱小国であったというプロイセンをイギリスやフランスと肩を並べるヨーロッパの強国へと一気に押し上げ、国際的な立場を確立することにも成功したのです。
こうした功績は“兵隊王“の父フリードリヒ・ヴィルヘルム1世ゆずり?の才能か、それとも結果的には彼の厳しすぎる教育の賜物?であったのかもしれませんね!
KPMベルリンを創業し運営!その裏にも父王の影?!
当時のヨーロッパでは王侯貴族の間で東洋の陶磁器やその製造開発が流行していましたが、学芸への造詣が深かったフリードリヒ大王にとってもそのブームは例外ではありませんでした。
フリードリヒ大王は、自身のお気に入りの宮殿、サンスーシ宮殿のある公園内に中国風の茶屋を建てさせ、収集した磁器のコレクションを展示したり、そこで食事やお茶を楽しむこともあったそうです。
そんな大王は、1763年に王立磁器製陶所、KPMベルリンを創設。
当初は王立と名のつく通り、王室で使用する製品や外国への贈答品専用の窯であったため、陶工から製品の材料まで何もかもが一流!というだけあり、最高レベルの製品を生み出し、現在に至るまで発展を続けてきました。
創業から250年以上もの伝統と歴史を誇るKPMベルリンは、地元ではヨーロッパ初の磁器窯であるマイセンと並ぶ高級磁器窯として知られ、フリードリヒ大王自身もマイセン磁器を愛用していたものの、自身も製造したいという意欲に駆られて創設に乗り出したとも言われています。
ところで、ザクセン選帝侯アウグスト強王が創設したマイセンで、ヨーロッパで初めて磁器の焼成に成功するという偉業をなしたことで有名な錬金術師ベトガー、実はもともとフリードリヒ大王の父フリードリヒ・ヴィルヘルム1世の元から逃亡し、アウグスト強王にかくまわれていたという経緯がありました。
出典:Wikipedia(ヨハン・フリードリッヒ・ベトガー)
つまり、貴重な人材をみすみす手放してしまったばかりか、他国にて大成功を収められてしまったのです。
そのため、フリードリヒ大王は父の無念を晴らすためにも自国の窯の創設と運営に尽力したともいわれていて、単に庇護するだけではなく自ら経営の指揮をとって積極的に携わりました。
ロゴには自身の出身であるブランデンブルク選帝侯伝統のモチーフ「王の笏」を授け、宮殿で使用するディナーセットや外国への贈答品を積極的に注文するなど、その名が広く知られ愛されるようにとその発展に情熱を注いだのです。
出典:KPMベルリン公式ホームページ(KPMベルリンのロゴ「王の笏」)
また、製品や窯の知名度といった表向きだけではなく、従業員には平均以上の給与や充実した制度を保証し、児童労働者を禁止するといった雇用に関する裏側も整備し、こうした方針は当時の工場経営の立派なモデルとされました。
フルートの腕前は玄人はだし!バッハ一家とも仲良し!?
「兵隊王」の父王の方針を受け継ぎ、強力な軍事力をもってヨーロッパを相手に果敢に闘ったフリードリヒ大王ですが、父王とは異なり、少年時代より育んだ哲学や芸術への関心や興味を生涯失うことはなく、「哲人王」とも呼ばれています。
彼の文化的な功績は陶磁器に以外にも、全30巻にも及ぶという膨大な著書の執筆や、得意のフルートによる作曲など多岐に渡ります。
フランス文化に傾倒し、フランス語による著作も遺したというフリードリヒ大王は、18世紀を代表するフランスの哲学者ヴォルテールやダランベールとも親交がありました。
特に文通相手のヴォルテールとは、お互いに強烈な個性の持ち主ゆえしばしば衝突することもあったようですが、一時期はヴォルテールを王の助言者としてサンスーシ宮殿で共に過ごしたこともあったようです。
出典:Wikipedia(ヴォルテール)
また、少年時代より培ったフルートの演奏は趣味の範囲を超え、玄人の域に達していたとか!自ら演奏するだけでなく、作曲まで手がけ、その作品は100曲以上!という量の多さに加え、極めて完成度が高く、今に伝わるものもあるのだそうです。
ちなみに、フリードリヒ大王が楽しそうに自らフルートを演奏する演奏会の様子は、絵画の中に見ることができます。
平和な時期には週に3〜5回ほど演奏会を開催していたというフリードリヒ大王の宮殿には、当然ながら一流の音楽家が集いますが、その中には“音楽の父”と称されるバッハの次男エマヌエルの姿もありました。
出典:Wikipedia(サンスーシ宮殿でフルートを演奏するフリードリヒ2世)
※大王を横目に見ながらチェンバロで伴奏しているのがバッハの次男カール・フィリップ・エマヌエル
当時エマヌエルは父バッハより有名だったともいわれる人物で、彼は大王即位の年より27年もの間、チェンバロ奏者を担当、フリードリヒ大王のフルート演奏に伴奏するなど宮廷で活躍しました。
また、その縁で1747年には父バッハがフリードリヒ大王の宮廷を訪問し、大王の希望に合わせて即興演奏を披露したという逸話も残っています。
出典:Wikipedia(ヨハン・ゼバスティアン・バッハ)
当時62歳のバッハは、その場でフリードリヒ大王のリクエストに見事に応じてみせただけでなく、後日、大王の希望に即興では応えきれなかった部分も含めた16の作品からなる曲集を仕上げ、大王に献呈までしています。
「音楽の捧げもの」と呼ばれるこの作品は、フリードリヒ大王の音楽好きが単なる趣味の域をはるかに超えていたことが伺えるエピソードと共に今に伝わっているのです。
最後の願いは愛犬と一緒に…じゃがいもが供えられるお墓?!
不本意な結婚や、厳しい戦争を果敢に乗り切ってきたフリードリヒ大王。
そんな彼が心のよりどころとしていたのが、自ら設計にも携わった夏の離宮、フランス語で「憂いなし」という意味をもつサンスーシ宮殿です。
晩年は大きな戦争もなく、国民からは“老フリッツ”の愛称で親しまれながら、趣味を勤しみ比較的穏やかに暮らしていたようです。
しかし、その一方で親しい人たちに先立たれた寂しさからか次第に暗い性格となっていったというフリードリヒ大王…
そんな彼の唯一の癒しはイタリアン・グレイハウンド(ポツダム・グレイハウンド)と呼ばれる犬種の11匹もの愛犬たちだけとなっていたようで、自身の死後は亡くなった愛犬たちが眠る庭園に埋葬してほしいと周囲に頼むようになります。
出典:Wikipedia(イタリアン・グレイハウンド)
そして1786年、フリードリヒ大王はサンスーシ宮殿にて老衰のため74歳で死去…
しかし、彼の最後の願いは聞き入れられず、あろうことか父王と同じポツダムのガルニゾン教会に埋葬されることになります。
ところが、その後、第二次世界大戦など激動の時代の最中にフリードリヒ大王と父王の遺体は各地を転々とさせられた後、最終的に二人はサンスーシ公園へ運ばれ、父王はフリーデンス教会へ、そして大王は自身の希望通りにサンスーシ宮殿庭先の芝生へ埋葬されることとなりました。
それは彼の死から200年以上の時を経た命日のことで、ようやく願いが叶えられたフリードリヒ大王は今も愛犬たちと共に眠っているのです。
ところで、そんな彼のお墓にはいつもじゃがいもが供えられていることでも有名です。
出典:Wikipedia(じゃがいもが供えられたフリードリヒ2世の墓)
それはフリードリヒ大王が、度重なる戦争などの影響で国が深刻な食糧難に悩まされていた際に、痩せた土地でも簡単に育ちやすいじゃがいもを食糧源として積極的に推奨し、その普及に尽力したことで食糧危機から国民を救うのに貢献したことが由来です。
当時、じゃがいもは主に観賞用とされ、食用として食べるべきではないという悪い噂が絶えない代物だったのだとか!
今ではドイツ料理には欠かせないという国民的食品のじゃがいも。ここにもフリードリヒ大王の幅広い功績が見え隠れしているようですね。
45年以上もの長きに渡って統治したプロイセン王であり、典型的な啓蒙専制君主としても有名なフリードリヒ大王。
彼の啓蒙思想は、もともとは王侯貴族や教会が支配する世界から一般の人々を自由にという考え方から広まったもので、生まれながらにして王侯貴族側のフリードリヒ大王がこうした思想を支持すること自体が斬新であり、その治世中に彼が行った革新的な改革は枚挙にいとまがありません。
そんなフリードリヒ2世は、軍事力の強化など君主として国力を底上げしたその手腕から、文化の面で発揮した類まれなるその才能、その一方で過酷な少年時代や女性がニガテ?!な愛犬家という人柄さえ思わず興味をかきたてられずにはいられない人物でもあるのです。