美貌の才女でパワフルな母から英才教育を受けて育つ!?
スウェーデンの歴史上、人気の高い君主の一人としても知られ、優れた外交手腕や文化芸術の発展に貢献した偉業のみならず、そのドラマティックな生涯も語り継がれることとなるグスタフ3世(Gustav III、1746-1792)。

出典:Wikipedia(グスタフ3世)
そんな彼は、1746年、ホルシュタイン=ゴットルプ家スウェーデン王のアドルフ・フレドリクと妃ロヴィーサ・ウルリカの長男として生まれます。
ホルシュタイン=ゴットルプ家は現在の王家の一つ前の王朝で、父王はその初代。

一方、母ロヴィーサはプロイセンのフリードリヒ大王を兄にもち、その美貌と才女ぶりは有名で、住まいの離宮ドロットニングホルム宮殿を「北欧のヴェルサイユ」と呼ばれるまでにした女性!
様々な文化芸術に造詣が深く、政治にも積極的に参加する王妃でもありました。

かつてはバルト帝国と呼ばれた強国であったものの、その後の大北方戦争での敗北以降、その栄華は陰を潜めていたスウェーデン。
おまけに国内は腐敗した議会、中でも貴族階級が牛耳り、王の権力は弱小…ロヴィーサはスウェーデンのそんなありさまに我慢ならず、夫を差し置いて実権を握っていたばかりか、自らクーデターを決行!
残念ながらこれは失敗に終わりますが、プロイセンのフリードリヒ大王の妹という誇りと自信を胸に!?その野望は諦めず、息子に託すことにしていたのです。
さて、そんなパワフルな母のもと、彼女が築き上げた文化と芸術が咲き誇るドロットニングホルム宮殿にて育てられたグスタフ3世は、政治的思想から趣味にいたるまで母の影響を受けながら、母譲りの才能あふれる青年へと育ちます。
出典:depositphotos.com(ドロットニングホルム宮殿)
そんな彼が最も興味を持ったのは演劇の分野で、幼い頃から観劇に参加していただけでなく、自ら台本を書こうとするまでに!
とりわけフランスの演劇団による演劇に魅了され、フランス文化にも興味を持つようになってゆきます。
何と言っても、母ロヴィーサは大の演劇好きで、彼女によってドロットニングホルム宮殿が改築された際には、図書室やギャラリーのほか、劇場まで増設させたほど!

出典:Wikipedia(ドロットニングホルム宮殿に隣接する宮廷劇場)
そんな母の趣味がつまった宮殿をしっかりと受け継いだグスタフ3世にとっても、同宮殿はお気に入りであったようで、ここでは晩餐会や舞踏会、オペラや演劇の上演といった催しが頻繁に行われる華やかな時代を築いてゆきました
王権復活と大勝利でヨーロッパ中にスウェーデンの底力を見せつける!
1771年、父王の崩御に伴って25才でスウェーデンの若き王となったグスタフ3世は、さっそくクーデターを決行!母ロヴィーサの期待通りに王権を復活させ、絶対王政の確立に成功してみせます。
出典:Wikipedia(クーデターを率いるグスタフ3世)
さらに、外交面では宿敵であったデンマークや、フィンランドを奪った大国ロシアに挑むことを視野に入れ、かつてスウェーデンが誇った栄華を取り戻すべく奔走し始めます。
グスタフ3世は、財政難による資金不足にもかかわらず周囲の反対を押し切ってヨーロッパ各地をめぐる旅へ出発!
表向きは保養ですが、もちろん目的は各国の動向を探ることにあり、できれば味方を増やしたい考えでした。
ところが、各国の動向はスウェーデンにとって芳しいものではなく…強力な味方を増やせそうな見込みは薄いうえ、ロシアはデンマーク寄りであるなど、スウェーデンにとっては大変不利な状況でありました。
さらに、ロシア女帝エカテリーナ2世との接触を試みるも女帝は関心がない様子…そこで、グスタフ3世は軍事力を強化し、フィンランドを取り戻すべくロシアに挑む道を選びます。

出典:Wikipedia(エカテリーナ2世)
こうして1788年より始まったロシアとの戦争は、最初こそスウェーデンが陸戦で苦戦を強いられるものの、終盤のフィンランド湾での海戦ではスウェーデンが優勢となり、参戦してきたデンマークをも退け、屈強なロシアの艦隊を打ち負かすことに成功!女帝エカテリーナ2世を慌てさせました。
最終的には中立を守っていたイギリスやプロイセンの介入で和平を結び、両国とも領土変更なしという形で終結となったものの、エカテリーナ2世率いるロシアはもちろん、ヨーロッパ中にスウェーデンの底力を見せつけるには十分であり、グスタフ3世はスウェーデンの国際的地位を向上させることにも成功したのです。
これ以降、ロシアとの関係は改善され、1791年には友好的に軍事同盟を締結するにいたっています。
ちなみに、エカテリーナ2世の母はホルシュタイン=ゴットルプ家出身で、グスタフ3世の父王の妹にあたります。
また、後にグスタフ3世の息子、グスタフ4世を気に入った女帝は自分の孫娘と結婚させようとしますが、二人の宗教の違いが問題となり、結果的にあと一歩のところでグスタフ4世に蹴られる格好で縁談は決裂!

出典:Wikipedia(グスタフ4世アドルフ)
当時老年であった女帝には健康を害するほどの衝撃的事件となり、女帝の死期を早めた逸話としても知られていて…グスタフ3世とエカテリーナ2世、実は公私共に?!ゆかりが深いのです。
妃はスウェーデン王室史上最も悲劇的な王妃!?
グスタフ3世がデンマークより迎えた妃で後のグスタフ4世の母であるソフィア・マグダレーナは、スウェーデンの王室史上、最も悲劇的な王妃といわれることもあるほど、孤独な王妃であったことで知られています。

出典:Wikipedia(ソフィア・マグダレーナ・アヴ・ダンマルク)
この結婚は、デンマークとの不安定な関係の緊張緩和という役割を持つ典型的な政略結婚であったようで、結婚が決まったのは彼女が5才のときのこと!
そのため、彼女は幼い頃から嫁ぐ23才まで未来のスウェーデン王妃にふさわしい女性として育て上げられます。
しかし、それが裏目に出た?!のか上品で控えめながら、生真面目で堅苦しい雰囲気をまとっていたという彼女は、人見知りだったこともあり、宮廷になかなかなじめず、夫グスタフ3世とも円満な関係とはいえなかったようです。
華やかな場を好む派手なタイプのグスタフ3世は、性格が真逆のソフィアとは基本的に気が合わず…
そもそも彼は、女性に対して興味を示さず、妃以外にも女性との交際がほとんど見られなかったといわれていて、そんな事情もあってか結婚から長男、後のグスタフ4世が誕生するまでに10年以上かかっています。
出典:Wikipedia(グスタフ3世、ソフィア・マグダレーナ王妃とアドルフ王子)
待望の息子が誕生してからの二人は関係が改善されたかに見えましたが、次男は幼いうちに亡くなり、それ以来、夫婦仲は再び冷え切ったものになってしまいます。
また、そんな二人の仲は、王室ではなく議会が決めた結婚に猛反対していたという母ロヴィーサからも妨害され続けていました。
ソフィアは二子を産んだにもかかわらず、宮廷ではグスタフ3世の実子ではないのではと噂される始末で、この噂をロヴィーサも支持!
そもそも噂を吹聴しているのは彼女自身ではという疑惑もあり、最終的にロヴィーサとソフィアはお互いに口をきかないほど険悪な状況に…二人の板挟み状態となっていたグスタフ3世は、最終的には夫婦仲、親子関係共に事実上の破綻という結末を迎えていたようです。
ちなみに、グスタフ4世は、後に尊敬する父の後継者となるも、その統治姿勢は父の方針を受け継いだとはいえず、最終的には国外追放される運命をたどっています。
名実ともに優れた国王として君臨し、民衆からも人気の高いグスタフ3世でしたが、意外にも?!家族関係はなかなか上手くはいかなかったようです。
ノーベル賞ともゆかりが深い!?スウェーデン文化の保護と育成に尽力!
啓蒙専制君主として様々な改革に取り組み、中でも文化芸術の保護やその発展に積極的であったことで知られるグスタフ3世。
1786年にはスウェーデンの学士院、スウェーデン・アカデミーを創設!これはフランスの学士院に倣ったものだそうで、グスタフ3世自らその規則を手がけたというほど熱心だったようです。

出典:Wikipedia(スウェーデン・アカデミー)
スウェーデン・アカデミーは、その後、紆余曲折あり、現在はノーベル賞のノーベル文学賞を選考することでも知られています。
フランス文化を敬愛し、日常ではフランス語を話していたというグスタフ3世ですが、その一方でスウェーデンの文化、特にスウェーデン語におけるその保護や普及、発展を重要視していたため、スウェーデン・アカデミーの主な目的はそこにあったといいます。
スウェーデン・アカデミーでは、スウェーデン語にまつわる書籍の出版や、論文などの作品コンテストなどが行われ、グスタフ3世自身もコンテストに参加し、入賞していたという逸話もあります。
また、舞台衣装を着るのを好み、時には衣装姿で晩餐会などの場に現れることもあったというほどおしゃれ好き!?なグスタフ3世は、その美的センス?で歴代の国王の服装を参考に、より国王に相応しい服装を考案するなど、衣服へのこだわりは相当なものであったことでも知られます。
さらに、「国民服」や「スウェーデン服」と呼ばれる国民のための正装を整備し、推進する取り組みまで行っていたほど!
出典:Wikipedia(男性用の国民服)
これは立派な政策で、衣服の素材の調達から仕立てにいたるまでを自国で行うことにより、当時主にフランスに頼っていた生地や既製品の輸入などにかかる費用の削減を目指したそうです。
もっとも、「国民服」は決して安価とはいえなかったため、一般にも広く普及するまでにはならなかったようですが…不評もありつつ、彼の治世中の宮廷内ではなかなか広まっていたよう!
大好きなフランスから影響を受けるだけでなく、同時に自国スウェーデン文化の保護や発展という観点も決して忘れないグスタフ3世らしいエピソードです。
スウェーデン王室御用達!ロールストランドともゆかりが深い!
幼少の頃より親しんだ演劇、オペラに関しては趣味の範囲を超え、政策としても熱心に取り組んだグスタフ3世は、ドロットニングホルム宮殿に劇場を作らせた母のように、1782年には王立歌劇場、通称オペラ座を改築という形で整備しました。

出典:Wikipedia(スウェーデン王立歌劇場のオリジナルの建物)
さらに、スウェーデン語による演劇やオペラの観劇がスウェーデン語のさらなる発展に役立つと考えていた彼は、外国のオペラをスウェーデン語に翻訳させて上演することにもこだわります。
また、脚本や演出にまで携わり、自ら演じることにも積極的だったというグスタフ3世。
彼は、クリスマスから新年にかけての時期を親しい家族や寵臣とグリプスホルム城で過ごす習慣があったそうですが、そこでも演劇の上演に積極的で、内輪だけの舞台では主役級の役をもこなしていたそうです。

出典:Wikipedia(グリプスホルム城)
ちなみに、グスタフ3世が、1726年創業というヨーロッパで特に古い歴史を持つ王室御用達窯のロールストランドにディナーセットを注文したという有名な逸話は、このグリプスホルム城を改築したときのことだそうです。

出典:https://auctionet.com/(ロールストランド、グリプスホルム)
スウェーデンが誇る北欧を代表するブランドとして、紆余曲折ありながらも創設から長い歴史を誇り、今日まで愛され続けているロールストランド。
残念ながら、グスタフ3世のためにお目見えしたというクラウン(王冠)のデザインは今では製造されていませんが、ロールストランドといえば、ノーベル賞授賞式の際の晩餐会でその格式高い食器が使われることでも有名!
ここでもグスタフ3世とのゆかりを感じずにはいられません。
ところで、ドロットニングホルム宮殿の名所の一つに中国様式(シノワズリ)とロココ様式が混在する中国離宮がありますが、これは当時流行していた東洋の磁器を愛し、その熱心な収集家でもあった母ロヴィーサに贈られたもの!
磁器への関心も母譲り?だったのかもしれませんね!

出典:Wikipedia(ドロットニングホルム宮殿の中国離宮)
ルイ16世、マリー・アントワネット夫妻とも仲良し!?
ドロットニングホルム宮殿はこの中国離宮のほか、見事な庭園も見どころとなっていて、バロック式庭園、ロココ式庭園のほか、英国式の庭園もあります。
出典:Wikipedia(ドロットニングホルム宮殿の英国庭園)
この英国式庭園はグスタフ3世が作らせたもので、彼が外国を旅する中で得たインスピレーションが元になっているといい、英国式といってもそのきっかけはロシアで見た庭園であったとか!
庭園に限らず、芸術への優れた感性と情熱を持つグスタフ3世は、ヨーロッパ各地をめぐる旅の中で様々な芸術文化に触れ、主にフランスから彼自身が特に好んだありとあらゆるフランス文化を自国に持ち帰りました。
ちなみに、グスタフ3世が持ち帰った、当時フランスで咲き誇っていた華やかなロココの文化は、彼によってスウェーデンで昇華され「グスタヴィアン」と呼ばれて今日まで人気のスタイルとして残っているそうです。
そんなグスタフ3世は、フランスの有名な国王夫妻、ルイ16世とマリー・アントワネットともゆかりが深く、ヴェルサイユ宮殿に招かれ、そこで夫妻と親交を深めました。
また、マリー・アントワネットの愛人として知られるフェルセン伯爵は、グスタフ3世の寵臣!

出典:Wikipedia(フェルセン伯爵)
後に勃発するフランス革命時にはフェルセンと共に何とか国王夫妻をフランスから逃がそうと手引きし、一家を革命から救い出すべく奔走しました。
残念ながら、国王夫妻の救出は大失敗…夫妻は処刑される運命をたどることとなり、そのころフランス革命から手をひかざるを得なくなったグスタフ3世にも不穏な影が忍び寄ることとなるのです。
ちなみに、何とか費用を工面してヨーロッパ各国をめぐるも政治的な成果はあまり上げられなかったのは前述の通り…というグスタフ3世でしたが、フランスとの交流でカリブ海のサン・バルテルミー島を獲得!
後にフランスへ返還されていますが、彼が活気ある都市にするべく力を注いだ中心都市「グスタビア」や「グスタフ3世飛行場」という彼にちなんだ地名は今日までそのまま残されています。

出典:depositphotos.com(サン・バルテルミー島、グスタビア)
最期まで国王を演じてみせた仮面舞踏会とは?
啓蒙専制君主として国民に慕われる優れた国王であろうと努めていたグスタフ3世は、市民や農民といった一般層から高い支持を集めた君主でもありました。
即位してまもなく無血クーデターに成功したことに始まり、一般層に寄り添った改革を積極的に行うその姿勢は、貴族層が牛耳る圧政に失望し、変革を渇望していた国民に受け入れられ、歓迎されていたのです。
その一方で、権力を奪われた貴族層からは恨まれていたうえ、貴族層以外のための政策のしわ寄せは貴族たちの負担となることも多く、彼らの不満はたまってゆく一方…
中には国王暗殺やクーデターという過激な思想を抱く貴族たちも出現し始め、その計画はついに実行に移されてしまいます。
1792年、オペラ座にて開かれた仮面舞踏会に出席していたグスタフ3世は、背後から至近距離で拳銃による弾を受け、即死は免れたものの、その傷が元で約2週間後に46才の若さで惜しまれながら命を落とします。
しかし、下級貴族出身であった実行犯ら国王暗殺を謀った過激派の計画は、混乱に乗じて街中でクーデターを起こすことまで含まれていたものの、混乱は起こらず、クーデターは失敗。
これは、負傷後、無事を装って脱出したというグスタフ3世が会場を完全に封鎖させたため、実行犯は街中どころか会場から出ることもできず直ちに身柄を確保されたことが大きかったようで、翌日には関係者ら全員が速やかに逮捕されることとなりました。
ちなみに、こうした過激な計画を支持したのはあくまでも一部の貴族だけであり、計画は実行前にすで漏れていたうえ、国王の身を案じた者によると思われる秘匿の手紙が届けられていたという逸話があります。
実際、グスタフ3世が当日着用した衣装のポケットにはその手紙が入っていたのだそうで、周囲には"暗殺を目論む者たちにとって、今夜ほど良い機会はないだろう"と話していたといいますから、仮面舞踏会への出席は最悪の事態を覚悟の上であったとされています。
仮面舞踏会といっても、グスタフ3世の当日の衣装は国王のそれとわかるものであったといい…スウェーデン国王として毅然と最後の"舞台"に立ち、また負傷しても冷静に国王を演じ続けた彼の何物にも屈しない強い意志が伝わってくる最期の逸話です。

出典:Wikipedia(グスタフ3世の暗殺当日の着用服)
また、グスタフ3世は、負傷してから亡くなるまでの間、重傷であったにもかかわらず多くの見舞客を迎えて気丈に振る舞ってみせただけでなく、弟で後のカール13世を通じ、犯人たちの処罰は寛大にと伝ていたとされ…
その後、逮捕者の中には減刑となる者もあり、実際には実行犯ただ一人だけが死刑となって事件は終結したのでした。
外交では卓越した手腕でヨーロッパ中にスウェーデンの力を見せつけ、その国際的地位を向上させ、国内では絶大な権力を保持する貴族階級から国民を救って称えられたうえ、母譲りの教養とセンスで文化芸術を花開かせ、仮面舞踏会が最期の舞台となったグスタフ3世。
その華麗なる生涯は、自身が生涯にわたって愛した演劇さながら!実際に、イタリアの作曲家ジュゼッペ・ヴェルディの名作オペラ「仮面舞踏会」はグスタフ3世の実話を元に誕生しました。
ところが、一国の君主暗殺という非常にデリケートなテーマを扱う同作品は、当時の厳しい検閲をなかなか通過することができず、ヴェルディは大変苦心したそうです。

出典:Wikipedia(オペラ「仮面舞踏会」の最終シーン、1860)
そのため、何とか上演を実現させるべく、泣く泣く舞台や細かい設定を変更せざるを得なかったという「仮面舞踏会」ですが、現在では堂々と?!スウェーデン国王の史実に基づいた物語として彼の華麗なる生涯を今に伝えているのです。