この時期には、産業革命が市民に芸術を謳歌させ、イギリス芸術をヨーロッパの中心へと押し上げる原動力になりました。
倹約家のジョージ3世
1760年に即位したジョージ3世は、生粋のドイツ人だった前代、前前代の王たちとは異なり、ハノーヴァー家出身でしたが、イギリス生まれでドイツのハノーファーへも一度も訪れたことがありませんでした。
出典:Wikipedia(ジョージ3世)
グレートブリテン王として1800年まで国を治め、その後20年間連合王国国王として在位、その治世の長さは歴代イギリス王の中でも現女王エリザベス2世を筆頭に、ヴィクトリア女王に次ぐ第3位の長さです
またジョージ3世は質素な食事、埃除けの白布をかけた椅子、絵のない額縁などが描かれたギルレイの風刺画で揶揄されるほどの倹約家だったため、多くの芸術作品を残してはいません。
出典:Wikipedia(「ジョージ3世」 ギルレイ作、1792 )
そんな中でもルーヴル美術館所蔵のジョージ3世の刻印の押された23点の食器セットはロベール=ジョゼフ・オーギュスト(1723-1805年)の最も重要な銀細工作品です。この作品からも既に新古典主義の影響が見られます。
出典: https://www.louvre.fr (イギリスのジョージ3世の食器セット)
アダム兄弟の室内トータルデザイン
この時代イギリスでは既に芸術の担い手は王や貴族だけではなくなっていました。産業革命により新富裕層が出現、住宅ブーム、アフタヌーンティーや家庭演奏会流行等、生活文化・社交文化が非常に発展します。
特に室内装飾においては、洗練された様式が確立したアーリー・ジョージアン様式に加え、軽快華麗なフランス・ロココ様式の装飾や新古典主義は室内外の装飾美術に大きな影響を与え、直線的な外観や明るい色調、精細華麗な装飾を持つイギリス独自の洗練の様式が人気を博していました。
中でも特に特徴的なのは、「アダム様式」です。
アダム様式は18世紀後半にスコットランドのロバート・アダムとその兄弟たちによって生み出されたもので、イギリスの伝統に軽快優雅な古典主義的な様式や古代ローマの建築要素や装飾モチーフを取り入れ、天井や壁面、暖炉や家具、じゅうたんからドアの把手のデザインまでをも全て統一されたデザインで飾りました。
出典:Wikipedia(サイオンハウス、ロンドン)
古典的な趣味で統一され、洗練された優雅さや華やかな装飾性は、同時期にフランスに現れた新古典主義様式と類似していたので、「イギリスのルイ16世様式」とも呼ばれました。
多くの家具師もこのような要素を採り込み、より安価な家具や図版を提供したことで、アダム様式は広く普及しました。
しかし1792年ロバートが死去するとアダム様式は次第に衰退していきます。しかしトータルデザインによる生活の質や利便性の向上を図った彼らの革新的思想は、19世紀末のアーツ・アンド・クラフツ運動等へ引き継がれることとなります。
王立アカデミーの誕生
ホガースの登場で新しい絵画の世界を開いたイギリス絵画は、ますます豊かで多様なものとなっていきます。
肖像画の分野は特に繁栄を続け、レノルズとゲインズバラという二人の天才を誕生させました。この時代には肖像画以外にも風景画と狩猟画が生まれ、広まり、歴史画は更に発展、当代の生活をテーマにした作品はますます発展します。
そんな中1768年には満を持して王立芸術院(ロイヤル・アカデミー・オブ・アーツ)がジョージ3世に認証され、レノルズを初代会長に据えて設立されます。現在、アカデミーの本部は、パラディオ様式のバーリントン邸 (バーリントン・ハウス) におかれています。
出典:Wikipedia(王立芸術院)
ジョシュア・レノルズ(Sir Joshua Reynolds)は若い頃イタリアで過ごしローマでラファエロや古代美術に魅せられたことからアカデミーでは歴史画の重要性を訴えていました。肖像画を描く際も、歴史的な装いを使って描くことを始めました。
出典:Wikipedia(「自画像」ジョシュア・レイノルズ)
もう1人の天才トマス・ゲインズバラ (Thomas Gainsborough)は、生涯で700点もの肖像画を描いた優れた肖像画画家でしたが、本人は「肖像画は金のために、風景画は楽しみのために描く」と言って本心は風景画を描きたかったのだと言い伝えられています。
出典:Wikipedia(「アンドルーズ夫妻像」トマス・ゲインズバラ作、1748-49)
若い頃はオランダに学び、自然を背景に人物を配した田園風肖像画でレノルズ以上の売れっ子画家になりました。そしてフランス・ロココのヴァトーのように、彼が肖像画に描き込んだモードや作法は上流社会の手本となり、流行の発信源となりました。
こうしてようやく不毛に時代を脱し、独自の道を切り開いたイギリス絵画は、19世紀に入ると他のヨーロッパ諸国に劣らない画家を輩出し、近代絵画の発展に大きな足跡を残す存在へと大きく成長してゆきます。
女王の陶器ウェッジウッド
「英国陶工の父」と称されるジョサイア・ウエッジウッドは、1759年バーズレムの地にウェッジウッド・カンパニーを創業します。
彼の長年培ってきた豊富な知識とアイデアに共同経営者のトーマス・ベントレーの優れた商才と人脈が加わって、ウェッジウッド社は次々と優れた作品を生み出していきました。
1765年には“クリームウェア”シリーズを開発します。“アーザンウェア”(硬質陶器)の代表作で、きめ細やかな象牙色をしているところからこの名前が付けられました。これがジェームス3世の妃、シャーロット王妃の称賛を呼び、“クイーンズウェア”(女王の陶器)と命名することを許され、王室お抱えの陶工となります。
出典: ウェッジウド本国公式サイト(Twig Fruit Basket And Stand)
王妃のためにデザインされた「クイーンズ・プレーン」やナポレオンに贈呈するために製作された「ナポレオン・アイビー」などデザインの種類も豊富です。
出典:chinasearch.co.uk(ウェッジウッド、ナポレオン・アイビー)
その3年後には「エジプトの黒」と言われるブラック・バサルト(玄武岩)の壺を、9年後にはウェッジウッドの顔である“ジャスパーウェア”を完成させました。1790年には、このジャスパーウェアで古代ローマの壺を復元し「ポートランドの壺」を制作します。
出典:https://www.metmuseum.org/(ウェッジウッド、ポートランドの壺、1840-60年)
1795年ジョサイアが他界すると息子のジョサイア2世が事業を更に発展させ、長年の夢だった“ファイン・ボーンチャイナ”の製品化に成功。独特の質感が好評を博し、ウェッジウッドの名を不動のものにしました。
参考資料
洋食器&ガラス器、新星出版社
新西洋美術史、西村書店