教養はフランス仕込み!性格は情熱的で破天荒!?
フランスのリーダーが今日のように大統領となる以前、最後の君主であったといえるのが、かの有名なナポレオン1世の甥にあたる皇帝ナポレオン3世。
出典:Wikipedia(ナポレオン3世)
その皇后として迎えられることになるのがスペイン名家出身のウジェニー・ド・モンティジョ(Eugénie de Montijo、1826-1920)です。一般的にはフランス語読みのウジェニーで知られる彼女ですが、スペイン名のエウヘニア・デ・モンティホ(Eugenia)でも知られます。
出典:Wikipedia(ウジェニー・ド・モンティジョ)
ウジェニーは、1826年、テバ伯爵やモンティホ伯爵など数々の称号を持つスペイン貴族の父ドン・シプリアーノと、彼の妻マヌエラの次女としてグラナダで生まれました。
出典:Wikipedia(シプリアーノ・パラフォクス・イ・ポルトカレッロ)
スペイン出身といっても、父が熱心にナポレオンを支持する“ボナパルティスト“であったこともあってか日常語もフランス語であったり、母に連れられて姉のパカと共にフランス・パリで教育を受けるなど、幼い頃からフランスに親しんで生活していたようです。
出典:Wikipedia(マヌエラとパカ、ウジェニー)
美しく聡明な女性であったという母マヌエラがパリで開くサロンではフランスの文豪メリメとの出会いもあり、メリメはウジェニーとパカの教育にも積極的になってくれていたとか!
出典:Wikipedia(プロスペル・メリメ)
ちなみに、メリメの代表作「カルメン」は同名の情熱的なジプシー女性のヒロインが登場する作品ですが、この話はメリメがマヌエラとの交流の中で生まれたという逸話もあるほど!メリメ先生のもと、姉妹がいかに贅沢な教育を受けられていたかがうかがえます。
大人しい姉のパカとは対照的に活発な少女であったというウジェニーは、父のもと乗馬や水泳もこなす活動的な一面もあったそうです。
出典:Wikipedia(姉パカ・デ・アルバ)
そんなウジェニーは、後にパカの婚約者となるアルバ公に姉と同時に恋してしまったことも…お気に入りであったというパカの方と結婚させたい母マヌエラの願望もあり、結果的にパカが結婚し、ウジェニーは大失恋。
出典:Wikipedia(15代アルバ公)
初恋といわれるこの恋の痛手はよほど辛かったようで、一時期は生涯、修道院入ることも考えたかと思えば、男装や煙草、馬にまたがって駆け巡ったり、闘牛場に姿を現すといった奇行に出るありさま…これはしばらく続いたそうです。
しかしながら、美貌のウジェニーには求婚者が絶えませんでしたが、彼女はことごとくこれを断り続け、次第に周囲から「鉄の処女」と噂されるようになってゆきます。
姉パカを愛し、大切に思うがゆえアルバ公から身を引いたともいわれるウジェニーは、後に姉夫妻を許して仲直りに至っていますが、彼女がことごとく求婚者を断り続けた理由はやはりアルバ公を忘れられなかったから…かもしれませんね。
ナポレオン3世に見初められ貴族出身からフランス皇后へ!
ナポレオン3世との最初の出会いは、なんとか娘のために良い縁談を取り付けたいと願っていた母マヌエラと共に参加したエリゼ宮での舞踏会。当時ナポレオン3世は第二共和制の大統領でした。
出典:Wikipedia(ナポレオン3世、1848年頃)
輝くばかりの美貌を持つ若き令嬢のウジェニーに対し、残念ながらナポレオン3世は容姿に恵まれているとはいえず、ウジェニーとは18年もの年の差があります。
そのころ、自身の地位の正統性をアピール、確立するために花嫁、それもできれば王侯貴族から迎えたいとしていたナポレオン3世でしたが、当時彼に対する各国の評価は芳しくなく、どこの王家からもなかなか娘や孫を出してはもらえずにいました。
そんな中、ついにスウェーデン王家とイギリス王家からようやく好ましい縁談が届くも、すでにウジェニーの美貌に魅了されていたナポレオン3世はこれを断り、ウジェニーにプロポーズする決意をします。
これにはスウェーデン王家やイギリス王家だけでなく、ナポレオン3世の側近たちからも国内外から批判が噴出!
いくらスペイン名家の出身であるウジェニーでも、王侯貴族出身ではないため身分不相応だとみなされていたのです。
ちなみに、父が“ボナパルティスト“であったこともあってかナポレオン3世の好意をまんざらでもないと受け入れていたというウジェニーでしたが、自分を愛人にしようとするナポレオン3世には激怒!
いつまでも煮え切らない態度の彼に対し、愛人にしようとするなら自分は身を引くという主旨を伝えたため、ナポレオン3世は血相を変えてプロポーズに至ったという逸話もあるのだとか…勝ち気で芯の強いウジェニーらしいエピソードです。
出典:Wikipedia(ウジェニー、1855年頃)
こうして周囲から批判の声も上がる中、1853年、前年に皇帝として即位していたナポレオン3世とウジェニーはノートルダム大聖堂で結婚式を挙げ、ウジェニーはフランス皇后となりました。
出典:Wikipedia(ノートルダム大聖堂)
抜群の美貌とセンスを誇る時のファッションリーダー!
最初こそ身分不相応などと批判されたウジェニーでしたが、何と言ってもその美貌はヨーロッパ屈指!
また聡明で知性と教養があり、抜群のセンスも持ち合わせた彼女は次第に流行の最先端にいるファッションリーダー的存在へとなってゆきます。
フランスが誇るリモージュの名窯ベルナルドは、その創業当初から彼女が愛したことでナポレオン3世皇室御用達となり、これ以降150年以上もの歴史を誇る伝統あるブランドとして一流ホテルやレストランでも愛され続け、現在に至っています。
出典:https://www.etsy.com/(ベルナルド窯の”ウジェニー・ド・モンティジョ”シリーズ)
その他にも、ウジェニーが流行の先駆けとなったものは数知れず!
例えば、ハンガリーの名窯ヘレンドが1867年、パリ万国博覧会に出品した「インドの華」シリーズ。このディナーセットをウジェニーが購入したことから一気に人気が高まります。
また、高級ブランドのルイ・ヴィトン創業者で当時は舞踏会の際の荷造り用木箱の製造業者であったルイ・ヴィトンは、彼を気に入ったウジェニーから依頼を受けるようになり、その後彼の作る旅行鞄が評判となります。
化粧品メーカーのゲラン創業者のパスカル・ゲランも、ウジェニーの結婚に際し、お祝いとして香水「オー・デ・コロン・イムペリアル」を献上し、これより王室御用達の調香師となりました。
さらに、ウジェニーは“クリノリンの女王“とも呼ばれ、当時開発されたばかりのクリノリンは彼女が気に入って取り入れていたことから大流行したそうです。
出典:Wikipedia(1860年頃のクリノリン・ドレス)
クリノリンとは、舞踏会などで身につけるドレスの裾をふんわりと見せるための下着のことで、当時はドレスの下にペチコートを何枚も重ねばきしなくてはならなかったため、これを解消するために開発されたもの。
当時、第一子を妊娠していたウジェニーは体型カバーのために愛用していたともいわれ、ドレスは膨らめば膨らむほど良いという流行はしばらく続いたといいます。
ヨーロッパ宮廷随一の美貌、オーストリア皇后エリザベートとの対面
ところで、そんな美貌の皇后ウジェニーと並び、その美しさが評判であったのがオーストリア皇后のエリザベートで、ウジェニーは何とか彼女と交流を持ちたいと願っていました。
出典:Wikipedia(オーストリア皇后エリザベート)
気難しい性格であったとされるエリザベートとの面会はなかなか実現に至りませんでしたが、後に外交上の場でウジェニーはナポレオン3世と共にザルツブルクを訪問する機会を得、ついにヨーロッパの2大美貌の皇妃の対面が実現することに!
出典:depositphotos.com(オーストリア、ザルツブルク)
当時ナポレオン3世はオーストリアからの風向きが良くなく、現地から冷ややかな目を向けられている最中にありましたが、やはり2人の皇后の対面に人々は興味津々だったのだそうです。
こうしてついに迎えた対面の日、エリザベートに比べ、最新流行の裾が短いドレスをまとっていたというウジェニーは保守的なザルツブルク市民からドレスだけは不評?であったというものの…
生まれながらにして王家出身のエリーザベトと並んでも引けを取らないその美しさは最初こそ冷ややかであった人々ですら認めざるを得なかったといいます。
また、エリザベートとの対面を前に自身の出身を気にしていたというウジェニーでしたが、エリザベートの方は気にも留めておらず、お互い美容に関心が高いという共通点があったことも功を奏し、すぐに親しくなれたのだとか!
ウジェニーの美しさ、存在感が国境を越えるものであったことが垣間見れるエピソードです。
イギリスのヴィクトリア女王との家族ぐるみの交流
さて、当時国境を越えてウジェニーが魅了したもう一人の人物、それはイギリスのヴィクトリア女王です。
出典:Wikipedia(ヴィクトリア女王)
ナポレオン3世の結婚前、イギリス王室はなんとかヴィクトリア女王の姪という申し分のない縁談を用意したにもかかわらず、蹴られてしまうという結果に終わったため、ヴィクトリア女王はわざわざ“下品で気が利かない結婚”という主旨のコメントを出すほどご立腹だったようです。
そんな中、ヴィクトリア女王を訪ねることになったウジェニーはそれこそ自身の出身を気に病みさぞかし気まずい思いだったことでしょう…しかしながら、ヴィクトリア女王もウジェニーの人柄を前に次第に打ち解けてゆき、これ以降、二人は生涯の友人となりました。
ウジェニーはヴィクトリア女王の長女、愛称ヴィッキーのために彼女そっくりの人形を贈り、その後パリから流行の着せ替えドレスを贈ったり、ヴィッキーがパリの最新ドレスを着られるよう手配してあげるなど和やかな交流を続けました。
出典:Wikipedia(ヴィクトリア女王の長女ヴィッキー、1863年頃)
イギリス訪問の翌年には、そのお返しとしてヴィクトリア女王夫妻をパリへ招待しています。
いつしかヴィクトリア女王はウジェニーの一人息子で後のナポレオン4世を愛称のルルと呼んで可愛がり、自身の末娘ベアトリス王女との結婚まで考えるようになっていたのだそう!
出典:Wikipedia(ウジェニーの一人息子ルル、ナポレオン4世、1870年14歳頃)
出典:Wikipedia(ヴィクトリア女王の末娘ベアトリス、1868年)
ちなみに、フランスがイギリスとの友好関係を築くのに成功した点はナポレオン3世の功績の一つとして評価されていますが…これにはウジェニーも大貢献したといえそうです。
失意のナポレオン3世とイギリスでの亡命生活
そんなナポレオン3世とウジェニーの夫妻ですが、大変な女好きであったというナポレオン3世との結婚生活は始まってまもなく破綻しており、夫が身分の見境なく連れてくる愛人の存在にウジェニーは悩まされ続けていたといいます。
ナポレオン3世の方も悪びれる様子がないわけではなく、むしろその負い目からかウジェニーの政治的な干渉にはかなり寛容であったそうで…聡明なウジェニーはその追い風もあって次第に君主としてのセンスも発揮していくようになり、ナポレオン3世不在時には摂政を務めるほど!
出典:Wikipedia(ナポレオン3世とウジェニー、1865年頃)
しかしながら、そんなウジェニーの努力もむなしく、ナポレオン3世は失脚への道を歩んでゆき…ついに、ランス帝国とプロイセン王国間で起こった普仏戦争(1870-1871年)で負けを悟ったナポレオン3世は降伏し、捕虜となってしまいます。
出典:Wikipedia(降伏したナポレオン3世(左)とビスマルク(右))
それを知ったウジェニーは、“降伏などするはずはない!彼は死んだ、私にそれを隠そうとしている!”と叫んだという勝ち気な彼女らしい逸話も残ります。
結果的にナポレオン3世は後に釈放されますが、夫妻は愛息子を連れてイギリスへ亡命することになりました。
親交のあったイギリスですから、ヴィクトリア女王夫妻はもちろんのこと、イギリス国民からも歓迎され、ロンドン郊外のチズルハースト(Chislehurst)に住まいを構えて新しい生活を始めます。
出典:Wikipedia(イギリス・チズルハーストでのナポレオン3世の住まい、カムデンプレイス)
ところが、その後数年の間に、心身衰えていたナポレオン3世が病死、イギリスで軍の学校を卒業した後、イギリスへの恩返しとして南アフリカのズールー戦争へ参加していたナポレオン4世が23才という若さで戦死…ウジェニーは相次いで家族を亡くす悲劇に見舞われます。
出典:Wikipedia(喪服姿のウジェニー、1873年)
晩年、ウジェニーはヴィクトリア女王の協力を得て当時の住まいであったファーンバラ(Farnborough)に聖マイケル修道院(St Michael's Abbey)を創設し、チズルハーストの教会から夫と息子を手厚く葬り直しています。
出典:Wikipedia(聖マイケル修道院)
そして、1920年、光と闇が交錯する生涯を94才まで生き抜いた彼女は、生まれ故郷のスペイン、マドリード滞在中にその生涯に幕を閉じ、夫と息子と同じ場所に眠っているのです。
その美貌とセンスでナポレオン3世を支えつつ、流行の最先端にいたフランス皇后ウジェニー。
ナポレオン3世とウジェニーの別荘が建てられたフランス南西部の小さな漁村、ビアリッツ(Biarritz)はこれ以降、人気の高級リゾート地へと華麗に生まれ変わったのだそうです。
出典:hyatt.com(Hôtel du Palais Biarritz、元々はナポレオン3世・ウジェニーの夏の別荘)
スペイン国境も近いこの地は、ウジェニーがかつて親しんだという思い出の地であり、彼女が懐かしんだためにナポレオン3世はこの場所に別荘を建てさせたんだとか!
ウジェニーのセンスがうかがえるだけでなく、栄光と挫折、苦楽を共にした夫妻の絆も垣間見える逸話ですね。
参考資料
http://www.visitchislehurst.org.uk/
https://tourisme.biarritz.fr/en