偉大な父のあとを継いだ“猫背のフリッツ“
フリードリヒ1世(Friedrich I、1657-1713)は、ブランデンブルク選帝侯であったフリードリヒ・ヴィルヘルムと、オランダ総督の娘であった妻ルイーゼ・ヘンリエッテとの間に、東プロイセンの中心都市であったケーニヒスベルク(現 ロシアのカリーニングラード)で生まれます。
出典: Wikipedia (フリードリヒ1世)
出典: depositphotos.com (カリーニングラード)
ちなみに、母方のいとこは、のちにオランダ総督を世襲し、その後、イギリスを妻メアリ2世とともに共同統治したイングランド国王のウィリアム3世。
17世紀のオランダは、世界の貿易をほとんど独占し、「黄金時代」と呼ばれるほどの繁栄を迎えていました。さすがに、その家系も華麗ですね。
さて、一方のプロイセン(現 ドイツ)はというと、神聖ローマ帝国を形成する領邦国家のひとつではありましたが、多数の諸侯が入り乱れるうちの、要するに、田舎の地方政権といった様相。
フリードリヒ1世の父フリードリヒ・ヴィルヘルムは、弱冠二十歳という若さで選帝侯を継承するや、プロイセンをポーランドの支配から解放したり、攻め入ってきたスウェーデンを追い返したり、フランスから来たユグノー(プロテスタント、新教徒)の移民を迎え入れてフランスの高度な文化を取り込んだりなど、この地方の発展に大きく貢献し、"大選帝侯"と称えられるほどの偉大な人物。
出典:Wikipedia(フリードリヒ・ヴィルヘルム)
そんな偉大な父王が亡くなり、1688年に彼の継承者となったフリードリヒ1世… 彼のプレッシャーは相当なものだったかもしれません。
実際、彼は容姿は"猫背フリッツ"とあだ名される小男で、内向的で優柔不断な性格のうえ、虚栄心の強い浪費家、だったそうで、父のように偉大な君主とは良い難かったようです。
ブランデンブルク選帝侯から、「プロイセン王国」の初代君主へ大出世!
しかし、何とかして周囲の有力な領邦から抜きんでたいフリードリヒ1世は、ある賭けに打って出ます。
この頃、フランスのルイ14世が自身の孫をスペイン王の後継者にしたことがきっかけで起こった「スペイン継承戦争」(1701-1714)をめぐり、これに応戦するための強力な支援を欲していたのが、神聖ローマ帝国の皇帝として君臨していたオーストリアのハプスブルク家。
出典: Wikipedia (スペイン継承戦争)
フリードリヒ1世は、神聖ローマ帝国の味方につくことを表明し、その支援として1万ものプロイセン軍兵士に加え、莫大な献金を約束して惜しみなく金品を贈与!
当時のルイ14世といえば、フランスに絶対王政を確立し「太陽王」とも呼ばれるほどの隆盛でしたが、フリードリヒ1世はこの太陽王を敵にまわして、見事にこの賭けに勝ち、1700年、神聖ローマ皇帝から「プロイセン国王」の称号を得ることに成功しました。
ちなみに、彼はブランデンブルク選帝侯時代は「フリードリヒ3世」と名乗っていましたが、国王となったこのときより「フリードリヒ1世」と呼ばれるようになりました。
ただし、「国王」の称号といっても、実際にフリードリヒ1世が支配権をもっていたのは全域ではなく、プロイセンの東部のみだったといい、正確には"プロイセンにおける王"というやや曖昧な称号ではあったようですが…
聡明で美人の妻ゾフィー・シャルロッテ
フリードリヒ1世は1679年に、いとこのエリーザベト・ヘンリエッテと結婚しますが、結婚後わずか4年で妻は天然痘により若くして死去…
そのため独り身となっていたフリードリヒ1世でしたが、1684年にハノーファー選帝侯エルンスト・アウグストの娘ゾフィー・シャルロッテ(Sophie Charlotte von Hannover、1668-1705)を再婚相手に迎えることとなります。
出典: Wikipedia (ゾフィー・シャルロッテ)
このゾフィー・シャルロッテは、フランス語を巧みに話し、幅広い学問に通じているだけでなく、幼い頃から両親より教わっていたという音楽の才能にも秀でており、チェンバロを弾きこなすことができたのだとか!
また、フランスやイタリアの音楽を愛し、確かな鑑賞力も備えていたといいます。
また、哲学にも長けていたといい、当時、有名な哲学者・数学者であったライプニッツ(Gottfried Wilhelm Leibniz、1646-1716)とは、度々文通を重ねる仲で、ときには学問に関して議論することもあったのだそうです。
ライプニッツが彼女について記したとされる記述によれば、彼女は"信じがたいほどの学識を持ち、深遠なる物事に関しても正しい結論を下すことができた"といい、彼女との対話は、その後の彼の著作に大きな影響を与えたといわれていますから、彼女の高い知性は並大抵のもので無かったことがうかがえますよね!
出典: Wikipedia (ライプニッツ)
そんなずば抜けた高い知性と教養を持ち、才能豊かであった彼女のサロンには多く芸術家や知識人が集ったため、彼女のおかげで、この頃の都となっていたベルリンの文化レベルがあがったといわれるほど!
聡明で美人というまさに才色兼備を体現したかのような妻に対しては、愛人を多く持っていたと言われるフリードリヒ1世も、彼なりに大切にしたようで、夫婦仲は悪くなかったとされています。
また、芸術アカデミーや科学アカデミーを設立するなど様々な文教政策を展開し、その初代会長にライプニッツを迎えるなど、妻ゾフィー・シャルロッテの影響力の大きさを垣間見ることができます。
夫から妻へのプレゼントは華麗な宮殿?!
1699年には彼の輝かしい功績のひとつ、ベルリンの名所シャルロッテンブルク宮殿を建設しますが、その名前からもわかる通り、この宮殿は妻ゾフィー・シャルロッテへ、夏の離宮として贈られたもの!
出典: depositphotos.com (シャルロッテンブルク宮殿)
実は、愛人とゆっくり過ごしたかったフリードリヒ1世が、宮殿を贈ることで彼女と距離を置きたかった、などという説もありますが…
真偽の程はともかく、日ごろから知性派の人々に囲まれる彼女が主人ですから、当然、宮殿にはそうした時の人や彼女が愛した音楽家たちが出入りしていたといい、彼女はここでより一層、語学や学問、芸術をたしなむことができたのだそうで、夫に感謝したといわれています。
フランスのベルサイユ宮殿から着想を得たという広大な庭園もあり、時にはゾフィー・シャルロッテ母娘とライプニッツが仲睦まじく散策することもあったのだとか!
そして、ヨーロッパで最も豪奢な宮殿の一つと称される華麗なシャルロッテンブルク宮殿を何よりも有名にしているのが、中国や日本(伊万里・柿右衛門)の膨大な磁器コレクションを豪華に飾った「磁器の間」。
出典: www.spsg.de (シャルロッテンブルク宮殿の「磁器の間」)
17世紀といえば、江戸幕府が鎖国政策をとり、貿易が許されたのは中国やオランダでしたが、これらの国を窓口としてヨーロッパに持ち込まれた陶磁器は、瞬く間にヨーロッパの王侯貴族を魅了し、金に糸目をつけず東洋磁器をコレクションし、邸宅を飾りたてるその姿は「磁器病」と呼ばれるほどでした。
残念ながら、シャルロッテンブルク宮殿は、第二次世界大戦で大きな被害を受け、また磁器コレクションもオリジナルは焼失したものも多かったようですが、現在は、見事に修復され、その姿は、世界遺産として今もなお愛され続けています。
ちなみに、シャルロッテンブルク宮殿は、造営された当初、リーツェンブルク宮殿と呼ばれていましたが、"シャルロッテンブルク"とゾフィー・シャルロッテの名を冠して呼ばるようになったのは、亡くなった彼女を偲んでのことでした。
ゾフィー・シャルロッテは、36才という若さで肺炎のため、この世を去りますが、お互いに敬愛し合う仲であったライプニッツはもちろん、夫フリードリヒ1世も彼女の死を心から悲しんだといわれています。
国は存亡の危機も、息子の活躍でヨーロッパの強国の一角に
プロイセン王国の初代国王に君臨し、秀才の妻と共に学芸の発展に貢献、そして妻には美しい宮殿を贈る…などなど華やかさが際立つフリードリヒ1世の治世!
実際、フランスのルイ14世に憧れていたという彼は、ルイ14世がヴェルサイユ宮殿で送ったような豪華絢爛な宮廷生活をまね、贅沢三昧の暮らしをしていたといいます。
しかし、現実はそう甘くはなかったようで…プロイセン王国の国王という絶大な権力を手に入れたかに見えた彼でしたが、神聖ローマ皇帝、すなわちオーストリアのハプスブルク家からは軽視されていたそうで、盛大な戴冠式ですら、フリードリヒ1世が勝手に執り行った"演出"に過ぎないとして、ハプスブルク家からは冷笑される程度だったともいわれています。
そんな事情も手伝って、元々虚栄心が強く、しかも浪費家であった彼は、権威を高めたいあまり、ますます虚勢を張って贅沢をするようになってしまい、国はかなり深刻な財政危機へ陥ってしまうことに…
早くも存続の危機を迎えたともいえる状態のプロイセン王国でしたが、1713年にフリードリヒ1世が亡くなった後、第2代国王となった彼の息子フリードリヒ・ヴィルヘルム1世(Friedrich Wilhelm I.、1688-1740)の治世が大きな転機となります。
フリードリヒ・ヴィルヘルム1世は、それまでの贅沢な宮廷生活を改め、国の財政はもちろん軍政の改革にも積極的に取り組むなど、危機的状況にある国の立て直しを図りました。
その結果、軍事力を大幅に上げたプロイセン王国は、より強大となり結果的に父が目指したような有力な国家へと発展させることに成功!
出典: Wikipedia (フリードリヒ・ヴィルヘルム1世)
18世紀には、神聖ローマ帝国の女帝と呼ばれたハプスブルク家のマリア・テレジアにとって、最大のライバル国として、互いに鎬をけずることになります。