エリザヴェータ|父ピョートル大帝の悲願を継いで、皇室窯インペリアルポーセリンを創設したロシアの女帝

ロシア初の磁器窯を創設!これは亡き父の悲願だった!?

白い黄金と称えられた白磁器の製法がヨーロッパで初めて解明され、現在のドイツ・ザクセンのアウグスト強王マイセンを創設してからおよそ30年、ロシアでは初となる陶磁器窯が誕生!

それがロシア最古の歴史を誇る名窯インペリアルポーセリンです。

インペリアルポーセリンは、1744年、女帝エリザヴェータ(Elizabeth Petrovna, 1709-1762)の命により皇帝専属の陶磁器工房としてペテルブルク郊外に創設されました。

エリザヴェータ出典:Wikipedia(エリザヴェータ)

実は、その長い歴史の発端は彼女の父である初代ロシア皇帝ピョートル大帝の時代までさかのぼります。

ピョートル大帝出典:Wikipedia(ピョートル大帝)

ピョートル大帝といえば、1917年までロシアの首都であったことでも有名なサンクトペテルブルク(St. Petersburg)を建設するなど、ロシアの近代化を進めたことで知られる人物。

サンクトペテルブルク出典:depositphotos.com(サンクトペテルブルク)

先進的かつ積極的に西欧のあらゆる技術や文化を自国ロシアに取り入れていた彼ですから、当時ヨーロッパで大流行していた白磁器も見逃すはずはなく…アウグスト強王のように自身もその製法を解明しようと試みていたようです。

しかも、アウグスト強王とは外交上の交流があり、実際にその都でマイセン発祥の地ドレスデンを訪れたこともあったのだそう!

残念ながら、その夢は実現に至らぬままピョートル大帝は亡くなってしまいますが、彼の死から約20年の歳月を経て、女帝となった娘エリザヴェータによって彼の悲願はようやく叶えられることとなるのでした。

インペリアルポーセリンは、インペリアルが皇室、ポーセリンが磁器を意味するというその名の通り、創設当初より皇室専用の帝国磁器工場として、皇帝のためだけに製作される品々が宮殿の食卓や部屋を飾り、晩餐会などを華やかに彩りました。

インペリアルポーセリン出典:インペリアルポーセリン本国公式サイト

長らく門外に出回ることはなく入手は困難とされていましたが、その後、海外へも輸出されるようになるなど、一般にも広まるようになると、その人気はロシア国内だけにとどまらず、世界中で愛されるようになっていきます。

ちなみに、1925年にロシアの国民的科学者の名にちなみロモノーソフと改名された後、再びインペリアルポーセリンに戻されたという経緯があるため、当然ながら時代によってマークが変わるほか、ソビエト時代のものかロシア時代のものとかによってもバックスタンプが異なるそうです。

ロモノーソフ出典:Wikipedia(ミハイル・ロモノーソフ)

そんなところからも、長きに渡って時代とともに変化しながら、ロシアの歴史とそこに暮らす人々に寄り添い、愛されてきた証が垣間見えるようですね!

 

女帝への険しい道のり…実は玉座からは遠い存在だった!?

エリザヴェータの父は前述の通り初代ロシア皇帝ピョートル大帝であり、母は彼の妻であり、彼の後を継ぎ女性初のロシア皇帝となったエカテリーナ1世です。

ここまで聞くとエリザヴェータには生まれながらにして輝かしい将来が約束されているかのようですが、意外にもそうではありませんでした。

というのも、彼女が誕生した1709年当時、両親はまだ正式に結婚していなかったため、あくまでも庶子という扱いであり、そのためにエリザヴェータと彼女の姉アンナ・ペトロヴナは玉座から遠い存在だとみなされていたのです。

エリザヴェータと姉アンナ出典:Wikipedia(少女時代の姉アンナ・左とエリザヴェータ・右)

父ピョートル大帝としても、自身の後継者にするというより、立派な皇女として外国の王侯貴族へ嫁がせたいという意向が強かったようで…エリザヴェータにはいくつもの外国語を習わせるなど教育に力を入れ、いよいよピョートル大帝の希望でフランスのルイ15世との結婚話が持ち上がったこともあったのだとか!

ルイ15世出典:Wikipedia(ルイ15世)

エリザヴェータは、フランス語、ドイツ語、イタリア語を話すことができ、高い教養を身につけていただけでなく、容姿が美しく、ダンスや乗馬が得意という活発で朗らかな性格だったのだそうですから、申し分のない花嫁候補だったことでしょう。

ところがここでも彼女が庶子という身の上であったことは大きな欠点となってしまったようで、フランス側から断られてしまいます。

結局、姉アンナの嫁ぎ先の縁でホルシュタイン=ゴットルプ家との婚約が決まるも、婚約者カール・アウグストが翌年、20才の若さで急死してしまい、実現には至りませんでした。

さらに、この頃、両親が相次いで死去した上、姉のアンナが出産の後に亡くなるなど、次々とつらい別れに見舞われたエリザヴェータは、心強い後ろ盾も失ってますます不利な立場となってゆきます。

ところが、ピョートル大帝を慕う軍の間では、今となっては彼の唯一の娘であり、若く美しく教養も備えた皇女エリザヴェータは大変人気が高く、次第に彼女自身もその人気を上手に利用して頭角を現すようになっていきます。

そんなエリザヴェータを当時の女帝アンナ・イヴァノヴナも警戒するように…

女帝アンナ・イヴァノヴナ出典:Wikipedia(女帝アンナ・イヴァノヴナ

その後、女帝アンナ亡き後を彼女の姪にあたるアンナ・レオポルドヴナが摂政として引き継ぎ、彼女の幼い息子イヴァン6世を皇帝に立てるという時代を迎えた頃、ついにエリザヴェータ率いる近衛軍はクーデターを起こします。

イヴァン6世出典:Wikipedia(イヴァン6世)

「無血クーデター」とも呼ばれるこの宮廷クーデターで、エリザヴェータは幼いイヴァン6世から王座を奪うことにあっさり成功!彼を廃位させ、1741年、ついに即位し女帝となりました。

女帝エリザヴェータを宣言するプレオブラジェンスキー連隊出典:Wikipedia(女帝エリザヴェータを宣言するプレオブラジェンスキー連隊)

ちなみに、捕らえられたイヴァン6世は幽閉され、救出の動きがあればすぐに殺害するよう命じていたのだそうで、この命は彼女以降の皇帝にも引き継がれたのだとか…

また彼女は、イヴァン6世が君主に名を連ねていた事実を葬ってしまうべく、彼の名を口にすることは一切許さず、名が記された物は廃棄させ、彼の硬貨は回収して使用を禁じるといった徹底ぶりだったという逸話もあります。

不利な立場から両親の玉座を奪還するべく、「ピョートル大帝の血をひく自身こそが君主にふさわしい」という演出で地道に味方を増やしたというエリザヴェータ…今度は苦労して築いた地位をゆるぎないものにすべく、警戒に抜かりはなかったようです。

 

後継者を育てあげようとするも…ことごとく残念な結果に!?

第6代ロシア皇帝となったエリザヴェータは、これ以降亡くなるまでの20年以上に渡りロシアを統治することとなりますが、独身であった彼女には子どもがいませんでしたから、当然ながら後継者についてはずいぶんと悩むことになります。

まずエリザヴェータが白羽の矢を立てたのが、姉アンナが出産した息子でエリザヴェータの甥、後のピョートル3世でした。

ピョートル3世出典:Wikipedia(ピョートル3世)

エリザヴェータはドイツで育っていたピョートル3世をわざわざ呼び寄せ、後継者として仕立てあげようとしますが…ほとんどドイツ人として育った彼との仲はなかなか上手くいかなかったようです。

そこで、彼に期待するのはあきらめてしまっていたというエリザヴェータは、彼に妻を迎えさせ、その子どもに期待を寄せ始めます。

ちなみに彼の花嫁はホルシュタイン=ゴットルプ家より迎えられた後のエカテリーナ2世で、彼女の母親はなんと、かつてエリザヴェータが婚約したカール・アウグストの妹にあたります。

エカテリーナ2世出典:Wikipedia(エカテリーナ2世)

本来であれば未来のロシア皇帝の妃候補になるほど高い身分ではなかったというエカテリーナ2世ですが、エリザヴェータとゆかりの深い家柄であったからこそ実現した縁談だったのだとか!

エカテリーナ2世もドイツ育ちであったため、ピョートル3世とは気が合うかと思いきや…夫妻の共通点はドイツ語を話すことくらいだったと言われるほど夫婦仲が悪く、なかなか子どもが生まれませんでした。

結婚から9年後に、ようやくエカテリーナ2世が長男パーヴェルを出産すると、エリザヴェータはさっそく不仲の両親から子どもを取り上げ、立派な後継者にするべく自ら養育を始めますが…溺愛しすぎてしまったために、良い子とはいえずゆがんだ性格に育ってしまったという残念な逸話があります。

パーヴェル1世出典:Wikipedia(パーヴェル1世)

 

3枚のペチコート作戦!

そんな中、ちょうどパーヴェルが誕生した1754年より始まった七年戦争では、オーストリア、フランス、ロシアが手を組み、プロイセン王フリードリヒ2世を抑え込むべく戦います。

フリードリヒ2世出典:Wikipedia(フリードリヒ2世)

興味深いことに、これはオーストリアの女帝マリア・テレジアが、当時のフランスで絶大な権力を握っていたとされるルイ15世の愛妾ポンパドゥール夫人と、ロシア女帝のエリザヴェータに声をかけたことで実現した三人の女性による結託であったそうで…「3枚のペチコート作戦」とも呼ばれるのだとか!

マリア・テレジア出典:Wikipedia(マリア・テレジア)

ポンパドゥール夫人出典:Wikipedia(ポンパドゥール夫人)

これにはさすがの強国プロイセンもかなわず、大勝利は目前!ところがそんな時、体調が悪化していたというエリザヴェータが死去してしまうのです。

さらに、後継者として即位したピョートル3世はドイツびいきだったために、フリードリヒ2世とあっさり講和を結んでしまい、勝てた戦争を台無しにしてしまったのでした。

エリザヴェータはフリードリヒ2世を毛嫌いしていたとされますから、自身の亡き後とはいえこの展開にはさぞかし悔しい思いをしたことでしょう…こちらも彼女にとって残念な逸話です。

しかしながら、エリザヴェータの治世中にこうした外国との戦争を経験したことでロシアの存在感が増し、国際的な地位の向上につながったことは確か!そうした意味で評価されていることはせめてもの慰め?かもしれませんね。

 

磁器だけではない!ピョートル大帝ゆずり?!ロシアの近代化に大貢献!

政治にはそれほど関心がなく、自身の愛人など信頼できる人物に任せきりだったといわれるエリザヴェータは、政治家としての評価は決して高いとはいえないようです。

しかしながら、父ピョートル大帝譲りともいえる君主としてのセンスを発揮し、彼の政治理念を掲げて積極的に国内の西欧化を図り、ロシアのさらなる近代化を進めた君主としては高く評価されています。

前述のロシア初となる1744年の磁器工場の創設以外にも、1755年には科学者ロモノーソフの提言を受けてモスクワ大学を創設、1757年には芸術アカデミーを創設するなど、学問や芸術の振興に力を入れ、その著しい発展に貢献しました。

モスクワ大学出典:Wikipedia(モスクワ大学)

また、フランスのヴェルサイユ宮殿のような華やかな宮廷文化を手本に、ロシアも遅れを取らないよう流行にも敏感だったそうで、そんなエリザヴェータのもとでロシアならではの華麗な宮廷文化が花開きます。

幼少の頃から教育の一環としてたしなんでいたおかげもあってか、音楽好きだったというエリザヴェータは、音楽事業にも情熱を注いだようで、宮廷では演奏や劇が上演されるようになり、ついには専用の劇場をいくつも建てさせたという逸話もあるほど!

建築にはとりわけ力を入れていたようで、彼女の命で建てられた宮殿などの建築物の数々は、今日のサンクトペテルブルクの名所として見ることができます。

たとえば、「サンクトペテルブルク歴史地区と関連建造物群」として世界遺産に登録されている名所の一つ、エカテリーナ宮殿は、元々は父ピョートル大帝が妻エカテリーナ1世の名を冠して建てさせたものです。

その後アンナ女帝の時代に増築されていましたが、これを気に入らなかったエリザヴェータによって壮麗なロココ調に大改築が施され、現在の華やかな姿へと生まれ変わらせました。

エカテリーナ宮殿出典:depositphotos.com(エカテリーナ宮殿)

こうした建築の多くに携わったのがイタリア人建築家のラストレッリという人物で、彼はエリザヴェータの庇護の元、彼女が好んだというバロック様式の建築を中心に手がけ、ロシアにおけるバロック様式をさらなる発展へと導いた立役者としても知られています。

ところで、エリザヴェータゆかりの宮殿の一つにアニチコフ宮殿がありますが、こちらは彼女が長年の愛人で事実上の夫とされるアレクセイ・ラズモフスキーに贈った宮殿としても知られています。

アニチコフ宮殿、1753年出典:Wikipedia(アニチコフ宮殿、1753年)

ラズモフスキーとの出会いは即位前にさかのぼるといい、一説には即位後の1742年に秘密結婚したとされ、二人の仲は二十年以上も続いたとも言われています。

アレクセイ・ラズモフスキー出典:Wikipedia(アレクセイ・ラズモフスキー)

高い身分の出身ではなくエリザヴェータとの間柄から瞬く間に出世したとされるラズモフスキーですが、地位や権力には関心が無く、出世しても変わることなく好人物であったのだそうです。

一方、エリザヴェータも有力者と結婚することなく生涯独身を貫いていますが…真相はどうあれロマンチックな逸話の残る名所です。

豪華な建築物の数々のほか、大変なおしゃれ好きだったために衣装にも多額の費用がかさみ、浪費家ともいわれる彼女ではありますが…その華やかな趣味が転じて!?豪華絢爛なロシアの宮廷文化を開花させた女帝エリザヴェータ。

父ピョートル大帝にならってロシアの近代化に貢献しただけでなく、彼の悲願であったロシア初の磁器窯の創設をも成し得たのは、両親譲りの君主としての素質と強運を持ち合わせていたエリザヴェータだったからこそ!かもしれませんね。

 

参考資料

インペリアルポーセリン本国公式サイト