貧しい生い立ちから王室御用達の陶工へ
ベルナール・パリシー(1510-1590)は、ルネサンス期に活躍したフランスの陶芸家です。
生年月日や出生の場所は確かではないものの、1510年頃フランス南部の都市、アジャンの生まれだといいます。
貧しい家庭に生まれ、その後はガラス職人として各地を遍歴し、ステンドグラスの下絵師としても修業を積みますが、妻子をもったのちも生活は苦しかったそうです。
出典:wikipedia(ベルナール・パリシー)
そんなあるとき、パリシーはイタリア製と推定されている陶器と出会い、それ以降、独力で釉陶の研究を開始。貧困のなかで、妻子や周囲の人々に呆れられながらも、陶器の表面を覆うガラス質の部分を作り出す釉薬を長年研究し続けました。
その熱中ぶりは、挙句の果てには自宅の床板や家財道具までも、研究のための燃料にしてしまったという逸話が残されているほどです。
やがて15年以上の歳月と苦労の末、ようやくパリシー独自の技法が完成。
パリシーが発案した「田舎風陶法」と呼ばれる技法は大変有名になり、ついには当時の王国の重要人物であった王妃カトリーヌ・ド・メディシスや大元帥アンヌ・ド・モンモランシーに才能を認められ、1556年には「国王と王太后の田舎風陶法発明者」の称号を得るまでになるのです。
幅広く愛された独特の作風「田舎風陶法」
パリシーの「田舎風陶法」は、中世の釉薬をかけた陶器を忠実に再現したものです。
実際の動植物から型を取り、それを釉薬で覆って作り上げた緻密な塑像は彼独特の技法であり、パリシーが手掛けたとされる大皿や大きな容器にこの装飾を見ることができます。
作品には、魚や爬虫類、両生類、甲殻類といった小動物や植物、貝殻などの立体的な浮彫が巧みに配置されており、理想的な自然界を表現したものといわれています。
さらに、この独特の技法は高級食器だけにとどまらず、テュイルリー宮殿の工房で王室のための作品も手がけました。
出典:Victoria and Albert Museum(「田舎風陶法による大皿」ベルナール・パリシー作)
出典:Victoria and Albert Museum(「水差し」ベルナール・パリシー作)
出典:Victoria and Albert Museum(「sauce boat」ベルナール・パリシー作)
芸術の愛好家としても有名であり、パリシーを寵愛していたフランス王妃のカトリーヌ・ド・メディシスは、ルーブル宮殿の近くにテュイルリー宮殿を作らせ、ここに壮麗なイタリア式の庭園を造ります。
出典:Wikipedia(カトリーヌ・ド・メディシス)
そして、ここにはパリシーの陶器で飾られたグロッタと呼ばれる人工洞窟もありました。
出典:Wikipedia(テュイルリー宮殿、1600年頃)
このテュイルリー宮殿は1871年に焼失してしまい、現在はテュイルリー庭園が当時の面影を伝えるのみとなっていますが、発掘調査では、この製作のためにパリシーが使用したとされる釉陶工用の大窯や、型や塑像といった器材も見つかっています。
カトリーヌ・ド・メディシスは芸術品を収集していたことでも知られますが、パリシーの陶器ももちろん彼女のコレクションに含まれていたほか、国王亡き後に彼女を支えた一人でもある大元帥アンヌ・ド・モンモランシーが作らせた居城であるエクアン城(現在はルネサンス美術館となっている)でもパリシーの陶器を見ることができます。
出典:Wikipedia(アンヌ・ド・モンモランシー)
芸術家でありながら博識な自然主義者
パリシーは陶工という芸術家の一面のほか、独学で多くを学んだ科学者であり、自然主義者という顔も持っていました。
身のまわりにある動植物や、海辺の貝殻、土や石など、あらゆるものを観察し、自然の仕組みやその働きについて理解を深め、知識を身に着けています。
パリシーは、こうして培われた経験を活かし、1575年からはパリで地質学や鉱物学、博物学といった自然科学にまつわる講演会を10年間ものあいだ行っていたといい、1580年、1583年にはこうした自然科学や農学に関する論文集を出版しているほどの博学者でもあったのです。
パリシーのこうした一面は、彼の作品に見られる、解剖学的といえるほど緻密で細部にまでこだわった塑像や力強い自然描写からも伺うことができます。
宗教戦争のただ中で迎えた悲劇的な最期
独自の技術を持ち、王室からもその才能を認められ、愛された陶工であったパリシーは、一方で、プロテスタントと呼ばれる新教徒でもありました。
ドイツにてステンドグラス下絵師として活動していた頃、当時のドイツはルターらの新教が広まった時代でもあり、この時期からプロテスタンティズムに興味を持ったと言われるようですが、宗教戦争のただ中にあるフランスにいた彼は度々弾圧を受けることとなります。
そして、ついに勅令によって新教徒は改宗か国外への追放かの選択を迫られますが、彼はこれに従いませんでした。
彼の庇護者であったカトリーヌ・ド・メディシスが1589年に亡くなると、パリシーは捕らえられ、バスティーユ牢獄へ送られ、そのまま獄死を遂げます。
出典:Wikipedia(バスティーユ牢獄、1647年)
パリシーが捕らえられた時期は諸説あり、獄中の彼をカトリーヌ・ド・メディシスが訪ねたという逸話も存在するようです。
苦難に屈することなく自分の信じた研究を続けた熱心な芸術家であったパリシーは、信仰においても自らの信念を貫いて生きたのです。