公妾って、愛人と何が違うの?
デュ・バリー夫人(1743-1793)は、それまでフランス国王ルイ15世の公妾として社交界の華と称えられたポンパドゥール夫人が42歳の若さで亡くなった後、公妾として取り立てられた美女です。
出典:Wikipedia(デュ・バリー夫人)
「公妾って、要するに愛人のことでしょう?どうせ見た目だけでしょう。なんか頭悪そう。」、などと侮ることなかれ。
当時の王族・貴族の結婚は、ほとんどが政略結婚であったので、政治的な思惑で結婚せざるを得なかった王妃よりも、本当に気に入って選んだ公妾のほうが、実際の発言権は大きい、なんてことも多かったようです。
また、当時はまだまだキリスト教の影響力が絶大でした。
このため、「結婚」は神が認めた特別なものとして神聖視されていたため、側室をおくことができなかったので、公妾は、愛人とはいいつつも、国から活動費を支給され、外交は公式な立場(=Royal Mistress)だったのです。
そして、社交界の花形であるだけでなく、重臣のひとりとして、文化・文化から、果ては、内政、人事、戦争までも幅広く国王の政治を補佐する立場でした。
これだけ重要な役割を演じなければならない一方、婚姻関係外(公妾)から生まれる庶子には相続権がありません。
つまり、仮に国王の子どもを産んだとしても、王太子の母にも王妃にもなれず、国王には他にも愛人が沢山おり、他の重臣とも仲良くやっていかなければいけない、という不安定な立場で過ごさねばなりません。
とてもではないけど、生半可な神経・能力では務まりません。
ポンパドゥール夫人も公妾
「とはいっても、同じ公妾なら、ポンパドゥール夫人の方が有名じゃない?」という、声も聞えてきそうですが、ポンパドゥール夫人は平民とはいっても富裕層の出身であるのに対し、デュ・バリー夫人は、お針子や娼婦のような貧しい立場から、国王の公妾にまでのぼりつめた才女なんです。
出典:Wikipedia(ポンパドゥール夫人)
これを現代でたとえると、水商売出身の女性が、日本を代表する会社社長の愛人になって、なんの後ろ盾もなく単身で会社に乗り込んで、歴々の重役たちを取り込みつつ、その大企業のかじ取りをしている、ようなもんでしょうか。
ちょっと、想像がつかないほどの、シンデレラストーリーですね。
娼婦同然のジャンヌが、デュ・バリー夫人として国王に出会うまで
さて、そのデュ・バリー夫人ですが、本名はマリ=ジャンヌ・ベキュー(Marie-Jeanne Bécu)といい、パリから東に250キロ離れた小さな町で、貧しいお針子のさらに私生児(婚姻関係にない男女の子供)として生をうけます。
しかし、母親は数年後に男と駆け落ちをしていなくなってしまいます。
まさにどん底のスタートですが、その後は、再婚した母に引き取られパリで生活するとともに、裕福な継父にかわいがられ、修道院寄宿学校でまともな教育をうけるチャンスを得ました(このあたりから、すでに人たらしの才能の片鱗がうかがえますね!)。
15歳で修道院を出たジャンヌは、美容師見習いに、次に裕福な婦人の奥女中となりますが、いずれも素行不良(不純異性交遊?)で首になってしまい、その後は、娼婦同然の生活をしていたそうです。
出典:Wikipedia(デュ・バリー夫人、ルイ15世との初対面時の1769年)
次に洋裁店で働くと、その美しさはたちまち広まり、多くの富裕な男性と友達になり、その中の一人が遊び人のデュ・バリー子爵でした。
デュ・バリー子爵は、ジャンヌの美しさに利用価値を認めて囲い込み、贅沢な暮らしを保証する一方で、金持ち貴族の夜の相手をさせたりしていたようです。(絵にかいたような極悪人ですね、デュ・バリー子爵!)
でも、人生なにがどう転ぶかわかりません。ジャンヌは、そんな貴族達との交際を通じて礼儀作法や洗練された社交術を身に着けていき、そして、5年前にポンパドゥール夫人を失くし、寂しく過ごしていた国王ルイ15世に見染められるチャンスを得ます。
絶世の美男子といわれ、数々の女性遍歴を繰り返したルイ15世も既に58歳、ジャンヌは25歳の時です。
出典:Wikipedia(ルイ15世)
そこでデュ・バリー子爵はジャンヌを自分の弟と結婚させました。
国王の公妾になるには既婚夫人でなくてはならなかったからです。子爵が結婚すれば良かったのですが、妻子があった為、弟を利用したようです。(本当にひどい男!!)
でも、こうしてめでたくルイ15世の正式の愛妾、デュ・バリー夫人が誕生しました。
ちなみに、愛妾となるのに、なぜ既婚女性でないとダメなのでしょうか?
未婚者ですと結婚という問題が出てきて国王に結婚をせまるかもしれません。もし愛妾が国王に結婚を迫ったりして、離婚や王太子廃位などの問題がおきれば大変です。
王妃は、外国の王女や有力者の娘であることが多いのでお家騒動や戦争に繋がる可能性もあります。
このため、既婚者で再婚できない相手、旦那の了承もあり、子供が出来ても生まないような女性が国王の愛妾にはぴったりだったということです(あらためて、非道いあつかい。。。)
デュ・バリー夫人とマリー・アントワネット、女の戦いに勝ったのはどちら?
デュ・バリー夫人が国王の公妾となって1年後、オーストリア皇女マリー・アントワネットが14歳で、ルイ15世の息子ルイ16世のもとにフランスに輿入れしてきました。
出典: Wikipedia (少女時代のマリー・アントワネット)
マリー・アントワネットの母親は、オーストリア・ハプスブルク家の隆盛の立役者であった女傑マリア・テレジアです。
そして、このマリア・テレジアは当時としては珍しく恋愛結婚で、なおかつ、婚前交渉禁止・同性愛禁止・売春禁止の法律を作るなど、性道徳に厳しいひとでした。
この母親の影響か、それとも若さゆえの潔癖さか、マリー・アントワネットは、デュ・バリー夫人を徹底的に嫌い、夫人とは一切、口も聞かず、公然と無視をしてデュ・バリー夫人に恥をかかせました。
ルイ15世の娘たちが、将来の王妃となる予定のマリー・アントワネット側についたのも、この対立に拍車をかけました。
当時の宮廷マナーでは、身分の低い側(デュ・バリー夫人)から高い側(マリー・アントワネット)へ声をかけることは許されず、およそ2年間この対立はつづきましたが、最後には、ルイ15世やマリア・テレジアに戒められて、1772年元旦の新年拝賀式にただ一言だけ「今日のベルサイユは、たいへんな人ですこと!」とデュ・バリー夫人に声をかけました。
出自も経歴も良いとはいえないデュ・バリー夫人ですが、性格は明るく、親しみやすく、気立ての良い女性だったようで、宮廷での人気も高かったことから、マリー・アントワネットも無視し続けることは難しかった、ということでしょうか。
ただし、その挨拶以降はマリーアントワネットがデュ・バリー夫人に声をかけることは生涯なかったと言います。よほど、プライドが傷ついたということなんでしょうね。
かつての恋人が死刑執行人
ひとときの栄華を極めたデュ・バリー夫人ですがその期間は短く、1774年にルイ15世が天然痘で倒れると、夫人もベルサイユを追放され、ボン・トー・ダム修道院に幽閉されました。
一時期は不遇な暮らしでしたが、宰相ド・モールパ伯爵やモーブー大法官などのつてをたより、パリ郊外のリシュエンヌに戻り、再び、貴族の愛人として優雅に暮らしています。
1789年にフランス革命が起こると、一旦はイギリスへ逃れたものの、1793年に一時帰国したところを革命派にとらえられ、ギロチン台へ送られて数奇な人生に幕をおろすことになりました。
この時の死刑執行人のシャルル=アンリ・サンソンは、若いころにデュ・バリー夫人と恋人だった時期があったと言われており、泣いて命乞いをする彼女の死刑執行に耐えられず、息子にその役を委ねています。
出典:Wikipedia(シャルル=アンリ・サンソン)
ちなみに、このサンソンは、死刑執行人にもかかわらず死刑廃止論者であったり、王制を支持する一方で身分の分け隔てなくひとと付き合ったり、当時としてはとても開明的な人であったようですね。
彼に関しては、「イノサン」(坂本眞一)というマンガにもなっているので、興味がある方は是非、ご一読を(ちょっとグロい描写が多いですけど、当時のフランス社会の雰囲気がわかり易く描かれていて、僕もこのマンガ好きです)。
デュ・バリー夫人にまつわる陶芸作品
公妾としての絶頂期は短いものの、社交界の華としてデュ・バリー夫人が身の回りの調度品は、セーヴルの陶磁器など豪華なものばかりです。
ヴェルサイユ宮殿にあるデュ・バリー夫人が暮らした館(Mistress’ Apartment)のインテリアは、こんな感じ。
出典:Châteaux et Autres Bâtiments(セーヴルの陶磁器)
その他にも、デュバリー夫人ゆかりの調度品は豪華なものばかりです。
出典:ルーブル美術館(磁器飾り板つきの箪笥)
(デュ・バリー夫人に送られたヴァンセンヌ陶器の花とセーヴルの花瓶)
参考資料
「マリーアントワネットの生涯」藤本ひとみ(著)
「ヴェルサイユの春秋」ジャック・ルブロン(著)