史上初の万国博覧会!指揮をとったのはヴィクトリア女王の夫アルバート公
1851年、ロンドンのサウスケンジントンにある王立公園ハイド・パークにて世界最初の万国博覧会が開催されました。
当時の君主、ヴィクトリア女王の治世を象徴する祭典ともいわれるほどの一大イベントであったこのロンドン万博、参加国は34ヶ国にのぼり、5月から10月にかけての会期141日間で総入場者数はのべ604万人という大盛況ぶり!
この来場者数は、当時のイギリスの人口の約3分の1、ロンドンの人口では約3倍という数字だそうです。
出典:Wikipedia(1851年のロンドン万国博覧会の水晶宮)
特に話題となったのは、、会場でありながら万博の最大級の目玉展示物でもあった水晶宮(クリスタル・パレス)と呼ばれる30万枚ものガラスでできたパビリオン。
出典:Wikipedia(1851年のロンドン万国博覧会の水晶宮)
この水晶宮がきっかけとして、ガラスを多く使う建物が増えたとも言われています。ロンドン万博の成功は、その華やかな建造物とともに後世に語り継がれることとなります。
そんな史上初の万博を大成功させた立役者こそ、ヴィクトリア女王の最愛の夫アルバート公(1819-1861)です。
当時のイギリス王室はドイツ系の血が濃かったため、国民からはイギリス人の夫が望まれていたにも関わらず、ヴィクトリア女王が惚れ込んでドイツ系のアルバート公と結婚した、なんて逸話もあるようです。
王立技芸協会の会長を務めていた彼が中心となり、もともとは国内で催されるはずであった博覧会を国際的な一大イベントに規模を拡大!熱心に投資し準備の指揮をとりました。
出典:Wikipedia(アルバート公)
そもそも、彼がこの史上初の万国博覧会を手掛けるきっかけとなったのは、ロンドン公文書館の館長補佐であったコール氏の進言がきっかっけでした。
1849年、パリで開催された産業博覧会を参観したコール氏は、フランスが万国博覧会を催そうとしたもののこれが叶わなかったことを知り、イギリスで開催してはどうかと提案したのです。
この提案を受け容れたアルバート公は、史上初となる万国博覧会を開催するべく、当初計画していたものより大規模な準備を進めることとし、見事実現させました。
そして、大成功を収めたロンドン万博は、18世紀末から始まった産業革命を経て「世界の工場」といわれるまでに発展を遂げたイギリスの圧倒的な工業力を世界に誇示する結果となったのです。
ちなみに、このロンドン万博に国内外から多くの人々が詰めかけた要因には、蒸気機関車をはじめとする交通網の発達に加え、清教徒革命や名誉革命を経て言論の自由という思想が広まったことや新聞の普及、こうした新聞を幅広く読むことができるコーヒーハウスの普及なども大きかったのだとか!
出典:https://medium.com(ロンドンのコーヒーハウス、18世紀)
また、定期蒸気船の航路がイギリスと世界各地の植民地とをつなぎ、この頃のロンドンは文字通り世界の中心であったことも挙げられます。
出典:Wikipedia(蒸気船)
ロンドン万博は、この時代に様々な方面で著しく発展していたイギリスの、まさに集大成といえる祭典だったことが伺えますね!
大成功を収めたロンドン万博は、52万ポンドという莫大な収益をあげ、18万ポンドもの利益をもたらしたといわれています。
その収益で、現在まで残るヴィクトリア&アルバート博物館やロイヤル・アルバート・ホールと呼ばれる演劇場、サイエンス・ミュージアム、ロンドン自然史博物館などの文化的な施設が次々と誕生しました。
この収益はエキシビション・ロードやクロムウェル・ロード、クイーンズ・ゲートといった道路の整備にも使われ、これらを命名したのはアルバート公だったといいます。
アルバート公の名を冠したロイヤル・アルバート・ホールの向かいには、彼の功績を記念した記念碑も立てられました。
出典:depositphotos.com (ロイヤル・アルバート・ホール)
ロンドン万博がきっかけで世の注目を集めたハンガリーの名窯「ヘレンド」
当時、国民からはあまり人気がなかったとされるアルバート公ですが、このロンドン万博の前後に限っては人々から称賛されていたのだとか!
ロンドン万博の収益によって誕生した数々の建造物が、今もなおアルバート公の名前とともに国民から愛される名所になっていることからも、彼の功績の大きさをうかがい知ることができますよね。
ちなみに、ロンドン万博会期中は、すべての展示物を見ることで頭がいっぱいになっていたというヴィクトリア女王も会場に何度も足を運んだといわれます。
彼女もまた夫を大変誇りに思っていたようで、この年の7月18日付の日記にはこのように書き記しました。
「我が愛する夫と我が国の功績に対して寄せられた平和の祈りと親善が大勝利を収めた。」
また、ロンドン万博は、ハンガリーの名窯「ヘレンド」がブランド陶磁器として、世界で認められるきっかけともなりました。
ヘレンドの創業は1826年、ヨーロッパ全土を巻き込んだナポレオン戦争がようやく終結し、新興の市民階級が勃興した時期にあたります。
他のヨーロッパの有名な陶磁器ブランドは、1709年のマイセンの創業以降、アウガルテン、リチャードジノリ、ウェッジウッドなどが18世紀半ばにかけて続々と開業し、これら窯元は、すでに開業当初の東洋の陶磁器を模倣したデザインから、ヨーロッパ独自のデザインを模索している時期にありました。
これらのブランドからかなり出遅れてスタートしたヘレンドは、ロンドン万博に蝶や花が絵付けされた東洋趣味のディナーセットを出品しますが、かえってこの古風なデザインが良かったのか、万博を訪れたヴィクトリア女王の目に止まり、女王からセットでの注文を受けたことで、一躍、有名ブランドの仲間入りをし、このシリーズは「ヴィクトリア」の名前で呼ばれるようになりました。
出典:ヘレンド公式サイト(ヴィクトリア)
ヘレンド以外にも、万博をきっかけとして名声を得た洋食器のブランドはいくつもあり、例えば、ガラス器で有名な「バカラ」は、1855年、1867年、1878年のパリ万博で3度のグランプリに輝き、王室御用達となったこともあり、その名声を不動のものとしました。
出典:国立国会図書館(バカラのクリスタルガラス製品展示場、1867年)
また、銀食器のカトラリーで有名な「クリストフル」は、1855年、1867年のパリ万博でグラン・プリを獲得、これによりナポレオン3世からの注文を受け、1867年パリ万博のセレモニーでも使われ国際的な評価を高めています。
出典:国立国会図書館(クリストフルの銀食器展示場、1855年)
もし世界最初のロンドン万博が不成功に終わり、その後に続く万博が開催されていなかったとしたら、これらのブランドも世に出る機会がなく、洋食器の世界はもっと寂しいものになっていたかもしれませんね。
若くして死去…アルバート公の生涯
偉大な女王ヴィクトリアを献身的に支えた夫であり、ロンドン万博を大成功に導くという功績を残したアルバート公でしたが、残念ながらその生涯は短く、この万博成功の10年後、1861年に42才という若さで亡くなります。
妻のヴィクトリアとは大変仲が良く、4男5女というたくさんの子どもに恵まれ、ヴィクトリアの頻繁な妊娠・出産のときには公私ともに彼女を支えたといわれるアルバート公…
最愛の夫を若くして亡くしたヴィクトリアがその後喪服に身を包んでしばらく公務を離れたのも有名な逸話です。
そんな彼は、自身の両親の仲が悪く、子ども時代の家庭環境がつらいものだった経験から、温かい家庭づくりに尽力する優しい人柄だったといいます。
しかし、その反面、子どもの教育にはやや厳しすぎる面もあったらしく、後に王位を継ぐことになる長男のアルバート・エドワードはそんな厳しい父にひどく反発したのだとか…
出典:Wikipedia(1860年頃のアルバート・エドワード)
アルバート公は、長男の反抗にひどく手を焼いたことで精神的なストレスを抱えたこともあってか、40才を過ぎたころから徐々に体調が優れなくなっていったといいます。
そんなある日、長男アルバート・エドワードの素行の悪さをたしなめるべく、体調不良にもかかわらず無理して彼の通うケンブリッジ大学へ駆けつけたアルバートでしたが、その日を境に体調を悪化させ、帰らぬ人となってしまいます。
嘆き悲しむヴィクトリアは、不良の長男が最愛の夫を早死にさせたと彼を責め続けたため、彼は生涯、母を恐れていたのだとか…
しかしながら、アルバート・エドワードは、父アルバートが亡くなる直前に彼の枕元に駆けつけ、父を安心させたといわれていますし、後にエドワード7世として王位を継いだとき、王の名にファーストネームのアルバートを用いなかった理由について、"イギリス王室でアルバートといえば父のこととしたい"と語ったのだそう…
出典:Wikipedia(エドワード7世)
反発しつつも、やはり偉大な父アルバートへの敬愛の念を忘れることはなかったのではないでしょうか。
ちなみに、ドイツの風習であった「クリスマス時期にクリスマスツリーを飾る」という習慣をイギリス王室に持ち込んだのは、ヴィクトリアの祖父にあたるジョージ3世の妻であり、ドイツ人であったシャーロット王妃だといわれています。
しかし、その後、ツリーを囲む仲むつまじいアルバート公とヴィクトリア夫妻と子どもたちの絵が雑誌に掲載されたことをきっかけに、イギリスの一般家庭の風習として広まったと言われています。
出典:BBC(アルバート公とヴィクトリア女王)
多忙な妻を支えた良き夫であり、温かい家庭を築こうとする父でもあったというアルバートの優しい人柄が伝わってくるようなエピソードですね!