ベルリンの歴史
ベルリン(Berlin)は、ドイツの東北部に位置し、人口は約360万人と言われています。これは、ドイツでは最大の都市であることはもちろん、ヨーロッパの中でもイギリスのロンドンに次いで第2位の規模です。
出典: depositphotos.com(ベルリン)
ベルリンという名前が歴史上に登場するのは13世紀になってからのことですが、15世紀には、神聖ローマ帝国の皇帝を選ぶ選挙に参加できる権利をもった「ブランデンブルク辺境伯」の領地における中心都市として発展します。
政治的な重要性をもった土地であったこともあり、ブランデンブルク辺境伯領の統治者は、ヨーロッパ宮廷一の美貌といわれた皇妃エリザベートの生家でもある名門ヴィッテルスバッハ家や、17世紀以降は、プロイセン王国の王家を世襲したホーエンツォレルン家へと、統治者は変遷します。
ホーエンツォレルン家でも特に有名な人物は、ヨーロッパ全土を巻き込んでカソリック(旧教)とプロテスタント(新教)が争った三十年戦争(1618-1648年)の際に指導者であったフリードリヒ・ヴィルヘルム(Friedrich Wilhelm、1620-1688)で、オランダやフランスの新教徒の移住を積極的に受け入れ、荒廃した領地を再興させ「大選帝侯」と称えられています。
出典:Wikipedia(フリードリヒ・ヴィルヘルム)
こういった異文化を受け入れる土壌があったためか、18世紀の名君フリードリヒ・ヴィルヘルム1世やフリードリヒ2世といった啓蒙専制君主の開明的な諸政策もあり、ベルリンは、現在に至るまで、宗教・民族・社会に対して寛容で、自由な空気をまとった国際都市として、長らくドイツの首都として発展してきました。
ベルリンの見どころは 、 東西分裂時代を伝える 「ベルリンの壁」や、ドイツの歴史を見続けてきた世界遺産「ブランデンブルク門」、世界屈指の博物館群など、枚挙に暇がありません。
しかし、今回は、18世紀の啓蒙専制君主にゆかりの深い、素晴らしい陶磁器コレクションで有名なシャルロッテンブルク宮殿、夏の離宮サンスーシー宮殿、そして、 青い「王の笏」マークで有名な高級磁器、KPM(ベルリン王立磁器製陶所) をご紹介したいと思います。
出典:Wikipedia(ナポレオンに征服された直後のベルリン・ブランデンブルク門)
シャルロッテンブルク宮殿の「磁器の間」
シャルロッテンブルク宮殿(Schloss Charlottenburg)は、1695年に、プロイセン公フリードリヒ1世の妃、ゾフィー・シャルロッテの命により建設が開始されました。
出典: https://depositphotos.com(シャルロッテンブルク宮殿)
この宮殿は、ゾフィー・シャルロッテの住居となり、フランス語が堪能で芸術にも造詣が深かった彼女のサロンは、優れた芸術家や学者たちで賑わいました。
出典:Wikipedia(ゾフィー・シャルロッテ)
シャルロッテンブルク宮殿の見どころは、見事な東洋磁器のコレクションが展示された「磁器の間(Porzellan kabinett)」です。
当時の王侯貴族の流行にならい、ゾフィー・シャルロッテも中国や日本の陶器をさかんに収集しました。金色の豪華な装飾と大きな鏡の間に、東洋の磁器がたくみに配置され、ため息の出るような絢爛さです。
出典: https://www.spsg.de/ (シャルロッテンブルク宮殿、磁器の間)
シャルロッテンブルク宮殿には広大な庭園があり、そちらの散策もおすすめです。庭園内にある建物の一つ、ベルヴェデーレ(Belvedere)の中にも素晴らしい陶磁器コレクションがあり、こちらには、ベルリン王立磁器製陶所の歴代の作品が並んでいます。
出典:Wikipedia(ヴェルヴェデーレ)
ゾフィー・シャルロッテとフリードリッヒ1世の息子、フリードリヒ・ヴィルヘルム1世は、両親とは異なり、芸術を理解しない武骨者で「兵隊王」と呼ばれました。
出典:Wikipedia(フリードリヒ・ヴィルヘルム1世)
彼の治世には、シャルロッテンブルク宮殿はあまり顧みられることはありませんでしたが、彼の死後、跡を継いだフリードリヒ2世は、教養高い祖母ゾフィー・シャルロッテの面影が残るこの宮殿に強く惹かれました。
出典:Wikipedia(フリードリヒ2世)
父の死後、1740年に即位してすぐにフリードリヒ2世は、シャルロッテンブルク宮殿を自らの居城として改装しました。
が、やがてマリア・テレジア率いるオーストリアとの戦争の最中、フリードリヒ2世はさらなる憩いの地を求めて、ベルリン郊外のポツダムに、サンスーシ宮殿の建築を始めます。
フリードリヒ2世とサンスーシ宮殿
サンスーシ宮殿 (Schloss Sanssouci、フランス語で「憂いがない」という意味) は、もともとフリードリヒ2世の夏の宮殿として1744年から1747年にかけて建てられました。
出典:Wikipedia(サンスーシー宮殿)
王自ら設計にも加わったこの宮殿を王はいたく気に入り、結局亡くなるまでのほとんどを、この宮殿で過ごしました。
父のフリードリヒ・ヴィルヘルム1世とは違い、芸術を愛し自らフルートも演奏したフリードリヒ2世は、その治世を通じて、マリア・テレジア率いるオーストリアなどの列強と戦うことを運命づけられていました。軍事的才能には恵まれたものの、もともと芸術家肌のフリードリヒ2世にとって、サンスーシ宮殿は心を癒す唯一の場所でした。
部屋数10余りと、王の居城としては比較的こじんまりした建物ですが、フリードリヒ2世はこの宮殿を好み、当時の著名な哲学者であったヴォルテールや、気心の知れた芸術家たちを招いては、政務を離れた和やかな時を過ごしたと言われます。
出典:Wikipedia(ヴォルテール)
サンスーシ宮殿の外観は比較的シンプルで、オーストリアのシェーンブルン宮殿と同様に明るい黄色の壁が特徴です。
内装は「フリードリヒ式ロココ」と呼ばれる、草花モチーフやパステルカラーが多用された、優美で豪華な装飾が施されています。
音楽演奏室では特にその特徴が残っており、白い壁に凝った金の装飾が施された部屋には、当時の鍵盤楽器と、フリードリヒ2世のものと思われるフルートが展示されています。
出典:Wikipedia(サンスーシー宮殿、音楽演奏室)
広大な庭園は、左右対称が特徴的なフランス・バロック様式で、宮殿前は6段のテラス形式になっています。宮殿と庭園は、1990年に世界遺産として登録されました。庭園の一角には、ドイツにじゃがいもを広めたフリードリヒ2世の墓があり、いつもじゃがいもが供えられているので、探してみてください。
出典: depositphotos.com(サンスーシ宮殿)
王立窯KPMベルリン
フリードリヒ2世は、当時のヨーロッパの君主たちと同様、東洋の陶磁器を集めるだけでは飽き足らず、自らの国で陶磁器の製造を試みました。青い「王の笏」マークで有名なKPMベルリン(ベルリン王立磁器製陶所)は、フリードリヒ2世が1763年に創設したものです。
出典:KPMベルリン公式サイト(クアランド・ロイヤル・ノア)
王家の製陶所の印として、王はブランデンブルク選帝侯の紋章である「王の笏」マークを製品に入れることを許可し、また、フリードリヒ2世は、自らKPMの最大の顧客であるとも言い、多くの食器セットを注文しています。
出典:KPMベルリン公式サイト(「王の笏」のバックスタンプ)
技術的にも芸術的にも常に先端を走ってきたKPMは、1943年に空襲により大きな被害を受けましたが、1957年に伝統の場所、ベルリンのティアガルテンに工場が再建されました。
2006年以降は、製陶所内の販売ギャラリーで製品が購入できるようになり、今では磁器の歴史の展示や磁器制作の様子を見られるコーナーもあります。
参考資料