パリから北へ80kmほどの、オー・ド・フランス地域圏、オワーズ県の県庁所在地であるボーヴェには、パリ北駅から列車で1時間20分程で訪れる事ができます。
観光スポットとしてまずお勧めするのは、街のちょうど中心にある未完のサン・ピエール大聖堂でしょう。
12〜13世紀フランスではゴシックの大聖堂が次々と建てられ、その高さが競われました。
そんな頃サン・ピエール大聖堂は建てられ、天井高48mに及ぶ世界一の高さを有する巨大聖堂となりました。
「ナポリを見てから死ね (Vedi Napoli e poi muori)」」と言われるほど、一生に一度は訪れたい風光明媚な南イタリアの中心都市ナポリ(Napoli)。
最大の見どころは、1世紀にヴェスビオ火山の噴火により、その火砕流により2000年前の生活をそのままに、地下に埋没したポンペイやヘルクラネウム(現エルコラーノ)遺跡の出土品です。
この影響を大きくうけたのが、イギリス・ウェッジウッド社の創業者であるジョサイア・ウェッジウッド。それまで東洋陶磁器の模倣をもとに発展してきたヨーロッパ陶磁器の世界に、欧州文明の起源であるギリシア・ローマ文化の要素を取り込むことで新たな流行を産み出します。
ウェッジウッドの美しいティー・カップでおいしい紅茶をいただきながら、スコーンやケーキを楽しむ・・・一生に一度は、本格的なアフタヌーン・ティーを体験してみたいものですよね。
イギリスではカフェでも楽しめますが、せっかくなら、名門ホテルで伝統的なアフタヌーン・ティーをしてはいかがでしょうか?
ロンドンにはアフタヌーン・ティーを楽しめる場所がありますが、中でも有名なのが名門5つ星ホテルのザ・サヴィ。
ロンドンの中心に位置し、テムズ川のほとりにある、1889年創業の歴史あるホテルです。
これまで、チャーリー・チャップリン、マリリン・モンローや、オードリー・ヘップバーンなど数々の著名人や王族、国家君主など世界のVIPに愛されてきました。
世界に名立たる陶磁器ブランド「ウェッジウッド」社を立ち上げたジョサイア・ウェッジウッド(1730-1795)は、イングランドのスタフォードシャー、その中でも「イギリスの陶器産業の里」と呼ばれるストーク・オン・トレント(Stork-on-Trent)の、代々陶器職人を務める陶芸一家に生まれ育ちました。
ジョサイアを並みの陶芸家とは異なる存在とした出来事が、11歳の時に起こりました。
アン女王(1665-1714)は、後に国王となるジェームズ2世の次女として生まれました。
アンの姉は、後に女王となるメアリ2世で、姉のメアリは控えめで大人しい性格であったのに対し、アンは乗馬やスポーツを好む社交的な人柄であったようです。
1683年にアンはデンマーク・ノルウェー国王の次男であったヨウエンと結婚し、夫婦仲は非常に良かったと言われています。
そんなアンの人生の転機ともいえる出来事が、1688年におきた名誉革命。
メアリ2世(1662-1694)は、夫と共に即位し、ふたりで共同統治を行ったことで知られるイングランド女王です。
イギリスの歴史上、夫婦が平等に国王と女王として「共同統治」を行ったのは、この夫ウィリアム3世と妻メアリ2世の時代のみです。
メアリ2世の伯父であるチャールズ2世は前々国王、父であるジェームズ2世は前国王、3才年下の実の妹はその後のアン女王、と家系だけみれば非の打ちどころのない華麗なる一族です。
しかし、彼女の即位までの経緯は、いろいろな利害関係と思惑がからみあった綱引きの結果であり、統治後も気苦労の絶えない人生であったようです。
ボーン・チャイナとは、牛の骨灰や骨リンを陶石に混ぜることによって出てきた、半透明で乳白色に輝く陶磁器。
それを生み出したのは、イギリスにある「ストーク・オン・トレント」という街です。
日本ではあまり知られていないこの街、あのウェッジウッドやスポードをはじめ、日本でも人気急上昇中のバーレイやエマ・ブリッジウォーターなど、イギリスを代表する陶磁器の工場が多数あります。
そんな英国陶器の聖地を訪れるなら、ぜひとも泊まってほしいのが、あのウェッジウッド家ゆかりの邸宅を改装したホテル「ジ・アッパー・ハウス(The Upper House)」です。
デュ・バリー夫人(1743-1793)は、それまでフランス国王ルイ15世の公妾として社交界の華と称えられたポンパドゥール夫人が42歳の若さで亡くなった後、公妾として取り立てられた美女です。
「公妾って、要するに愛人のことでしょう?どうせ見た目だけでしょう。なんか頭悪そう。」、などと侮ることなかれ。
デルタでは既に1280年代にマヨリカ焼きを作成していた記録が残っており、そして産出された陶器は、地元の人たちが使うだけでなく、ペルージャやアッシジ(Assisi)にも運ばれていたとのことから、かなりの量が製造されていたことが伺われます。
当初のデルタ製陶器は、植物や幾何学模様が描かれた極めてシンプルなデザインのものでしたが、15世紀初め、それまで作られていたテラコッタと呼ばれる素焼きの焼き物の製作を止め、マヨリカ焼きの製法での陶器作りを専門的に行うようになります。
先史時代から陶器作りが盛んだったカルタジローネに、中世になるとマヨルカ島の商人によってイスパノ・モレスク陶器(「イスパニア・ムーア人の陶器」の意味でこの地域の錫釉陶器の総称)が輸入され、その技法もムーア人(アフリカ北西部に住むイスラム教徒)の陶工たちによってもたらされました。
その後、マヨルカ島からやって来たその陶器は、錫釉を塗ることで陶器表面が不透明で真っ白になり、その上に絵付けをすると非常に鮮やかに色が映えることから、瞬く間にイタリア各地へ広まってゆき、もっぱら16世紀までにイタリアで作られた錫釉陶器は「マヨリカ焼き」と呼ばれるようになりました。
地中海沿岸の地域では古くから陶器が製造されていましたが、その中でも良質な土が取れることから名を馳せていたのが、ここヴァロリスです。
しかしこのヴァロリスの陶器も衰退していた時期があります。 それを救ったのがピカソでした。
現代ではセーヴル、リモージュなどの名窯の作品を目にする機会が多く、サン・クルーの磁器は一般的にあまり知られていません。
しかし、ここサン・クルー窯はフランスで初めて軟質磁器を生産した窯と言われています。
アジアの陶磁器がヨーロッパに紹介され、ヨーロッパ風の洗練された品質やデザインで生産・流通されることになるのは、16世紀の大航海時代より後の、「近世」と呼ばれる時代になってからのことです。
これより前の時代「中世」とは、一般的には、ヨーロッパ全域を支配した大帝国であったローマ帝国が東西に分裂してから、東ローマ帝国が滅亡するまでの5-15世紀ころを指します。
17世紀のヨーロッパ人は、ギリシャ・ローマ時代(古代)と自分たちが生きる時代(近世)との間の時代を、古代の輝かしい文明や道徳が失われ、政治・経済的にも衰退してしまった「暗黒時代」と呼びました。