南仏マルセイユから車で約1時間半、ムスティエ・サント・マリー(Moustiers Saint-Marie)という小さな村をご存知でしょうか?
フランスのグランドキャニオンと言われるヴェルデン渓谷と、2200ヘクタールの巨大なサント・コワ湖のすぐ近くに位置する、人口は約700人の本当に小さな村です。
こんなに小さな村ですが、フランスで最も美しい村の一つに指定されており、ムスティエ焼きや素晴らしい絶景を眺めに、世界でも知られた観光地となってきています。
リモージュ焼きといえば、透き通るような白磁に、クラシックで優雅な絵付けがほどこされた気品あるデザインが特徴的です。
このリモージュ磁器の誕生は1765年〜1770年頃と言われ、リモージュ最古の窯「ロワイヤル・リモージュ(Royal Limoges)」をはじめ、「ベルナルド(Bernardaud)」、「アビランド(Haviland)」、「レイノー(Raynaud)」、「ロールセリニャック(Laure Selignac)」などフランスを誇る老舗窯が、今もなお多数存在しています。
さて、ではこのリモージュでなぜ磁器生産が盛況したのでしょう。
ザクセン選帝侯としてのフリードリヒ・アウグスト1世(Friedrich August I)と、ポーランド・リトアニア共和国の王としてのアウグスト2世(August II Mocny)という2つの顔をもち、"強健王"や"ザクセンのヘラクレス"などとも呼ばれるほど驚異的な怪力の持ち主としても有名なアウグスト強王(1670-1733)。
その異名を証明するため?!しばしば蹄鉄をへし折って見せ、自慢していた!という驚きの逸話も残る彼は、1670年にザクセン選帝侯領の首都ドレスデンに生まれます。
「メディチ家」と聞くと、何を最初に連想しますか?
成金? 金融? 借金取り? 毒薬? 殺人?
どれもあまり好印象とは言えないものが多いかも知れません。
メディチ家は、ルネッサンス期を代表する一族で、銀行家、政治家として当時のフィレンツェを牛耳っていました。
フランチェスコ1世・デ・メディチ(Francesco I de' Medici、1541-1587)は、このメディチ家の出身で、1584年に、日本の九州の大名がローマ教皇に向けて使節として派遣した4人の日本人少年(天正遣欧少年使節)に、イタリアでの謁見を果たした人物でもあります。
フェリペ2世(Felipe II、1527-1598)は、絶対君主の代表格にも位置づけられる人物で、スペイン黄金世紀の中でも最盛期に君臨した国王です。
このため、フェリペ2世はきっと、その時代に見合った、華やかな生活を送っていたはずと想像を広げる人も多いでしょう。フランスのルイ14世のように、絢爛豪華なものに囲まれ、豪遊生活を楽しんでいたのだろうと。
しかし実際はというと、フェリペ2世は絢爛豪華なものとは無縁の生活を送っていたのです。
ドイツ南部に位置するバイエルン州にあるアンスバッハ(Ansbach)の町は、ドイツのマンハイムからチェコのプラハまで100kmにも続き、中世から近世にかけて建てられたお城がレストランやホテルとして運営されている「古城街道」にあります。
人口4万人ほどの小さな町ですが、近郊にあるローテンブルク(Rothenburg)やニュルンベルク(Nürnberg)などに劣らない魅力があり、18世紀にはアンスバッハ・ロココと呼ばれる豪華絢爛な文化が花開きました。
カンペール焼きの歴史は、17世紀に絶対王政の元でフランス絶頂期を演出し、「太陽王」とも呼ばれたルイ14世の時代にまで遡ります。
15世紀頃から作られていた素朴な陶器が、ルイ14世の庇護の下、大きく発展していきます。
王家により設立された陶器工房(のちのHB社)は、手書き絵付け陶器のフランスで最も古い企業としても有名です。
マラガの街の起源は、紀元前3000年頃にペルシア湾から地中海地方へ移住してきたと言われる海上交易の民フェニキア人が、紀元前1000年頃に現在の場所に「マラカ」(Malaka)という都市を建てたことに始まります。
「マラカ」という名はフェニキア語の「塩」から来ていて、港で魚が塩漬けにされていたことによると言われています。
セビリアの街は大西洋へとつながるグアダルキビール川の恩恵を受け、海洋貿易の拠点として長らく繁栄を誇っていました。
1492年に新大陸(アメリカ)を発見したコロンブスはここセビリアから出帆。セビリアが果たした重要な役割は今も語り継がれています。
711年から1248年まで、アル・アンダルス(現在のアンダルシア地方)の他の町々と同様イスラムの支配下におかれ、その影響を強く受けたセビリアの街には現在もイスラム文化が色濃く残されており、例えば、現存するヒラルダの塔は当時モスクの鐘楼だったものです。
しかしセビリアの街を彩るのは、イスラム文化だけではありません。
キリスト教徒がイスラム教徒から支配権を取り戻そうとするレコンキスタ(国土回復運動)が進む13世紀以降のイベリア半島において、最後までイスラム王国の首都として栄えたグラナダは、今も色濃くアラブの香りを残しています。
1469年に、イベリア半島ではアラゴン王国のフェルナンド5世と、隣国のカスティリャ王国の王女イサベルが結婚し、「スペイン王国」として両国を共同統治し、1492年には、両王が率いるキリスト教徒軍によって街は無血開城されました。
世界各国から愛される有名紅茶ブランド、リプトン。
日本で初めて輸入された紅茶はリプトンであり、日本人にとっても大変なじみの深い紅茶といえるでしょう。
そんなリプトンの創業者トーマス・リプトン(Thomas Lipton、1850-1931)はもともと食料品店を営んでおり、紅茶の事業を始めるのは意外にも?39才頃のこと!
1851年、ロンドンのサウスケンジントンにある王立公園ハイド・パークにて世界最初の万国博覧会が開催されました。
当時の君主、ヴィクトリア女王の治世を象徴する祭典ともいわれるほどの一大イベントであったこのロンドン万博、参加国は34ヶ国にのぼり、5月から10月にかけての会期141日間で総入場者数はのべ604万人という大盛況ぶり!
そんな史上初の万博を大成功させた立役者こそ、ヴィクトリア女王の最愛の夫アルバート公(1819-1861)です。
17世紀に、国力をつけたイギリスとフランスは、いずれも積極的な植民地獲得に乗り出し、インド、アメリカ新大陸で互いに争い、ヨーロッパにおいても、スペイン継承戦争、オーストリア継承戦争、七年戦争などで度々、敵対しました。
これら植民地政策や相次ぐ戦争で、多額の費用がかさんでいた18世紀のイギリス。
そこでイギリスは、苦しまぎれに新たな課税を始めることとなりますが、これが国内のみならず、"国外"からも大きな反発を受けることとなります。
1401年にルネサンスの幕開けともいわれる、洗礼堂の門の彫刻制作のためのコンクールがフィレンツェで開かれます。
当時フィレンツェにはこのコンクールの勝者となったギベルティーをはじめ、ライバルでのちに大聖堂の丸天井の設計に携わるブルネレスキ、ブルネレスキの友人のドナテッロなど錚々たる彫刻家たちが活躍していました。
そのドナテッロと競作することとなった、フィレンツェの大聖堂のための大理石の聖歌台を作ったのがルカ・デッラ・ロッビア(Luca della Robbia、1400-1481)でした。
フィレンツェから電車に乗って15分も走ると、その景観は一遍し、車窓にはのどかな田園風景が広がります。
普通列車で30分ほどで、モンテルーポ・カプライア(Montelupo-Capraia)駅に到着、駅員のいない無人駅です。
古くからモンテルーポには特出した産業はありませんでした。唯一この街を支えた陶器作り以外には。
この街の陶器が注目されるようになったのは1406年フィレンツェが念願だった港、ピサ(Pisa)を手中に治めてからのことです。
トレドの歴史はとても長く、最初にこの地が「首都」とされたのは560年で、ローマ帝国の東西分裂、ゲルマン系王国でキリスト教を国教とする西ゴート王国、そして、その後の数百年はイスラム勢力の支配下となりますが、文化面でいえばキリスト教世界からも学者が訪れ、イスラム教とキリスト教の融合する文化都市として発展します。
1085年に、キリスト教勢力であるカスティーリャ=レオン王国のアルフォンソ6世がトレドに入城し、以降、1561年に、フェリペ2世がマドリードに遷都するまでの数百年間、文化・政治・経済の中心として、鉄製品や陶器などの生産地として繁栄しました。